北条加蓮の日記②(第65期王将戦七番勝負第2局羽生名人-郷田王将 2日目)
今度はなかなかすっきりした目覚めだった。
夜は熱でうなされたけど、もう大分引いてる感じがする。
体温を測ってみたら、37.0℃だった。
うわ。
なんか微妙・・・。
でも、これくらいなら行けるかな。
体もそんなにきつくないし・・・と思ったところで、昨日の奈緒のメッセージを思い出す。
「半端な状態で無理をしようとしないこと。今は体を休めて風邪をきっちり治すのがプロ仕事・・・だってさ」
ああ。
こうなるって分かってて釘を刺したのかな。
私のことはお見通しってわけね。
仕方ないな。今日まで休もう。
多分、明日には良くなるから。
第65期王将戦七番勝負第2局羽生名人-郷田王将 2日目
▲3七角△4五歩▲4八飛△8六歩
封じ手は▲3七角だった。
これは昨日奈緒も言っていた気がする。
▲4八飛は自信なくて▲3八飛は成算の微妙な千日手模様ということもあるけど、指されてみるとまあ普通だ。
でも郷田王将は次の△4五歩をなかなか指さなかったから、これで案外予想外だったのかも。
ここは△4五歩がほぼ必然で、△同角成は▲同桂と跳ねさせるだけの手損だよね。
アイドルは手損を嫌うって?
どうかな?ふふっ。
奈緒は先手自信ないって言ってたけど、まだ良い勝負じゃないかなって思いながらボーッと見てた。
それで、後で知ったんだ。
この△8六歩が、勝負の分かれ目だったって。
▲同 銀△6五歩▲4六角△同 歩▲6五歩△4七歩成▲同 飛△3八角▲6六角△3三銀▲4八飛△2九角成▲3五歩△3一玉
先手は角交換した後、▲6五歩で開いた空間に角を置いた。
私が指してる時も思うんだけど、角に斜めから狙われるって結構嫌なんだよね。
そういう感覚ってプロでも同じなのかな?
もちろんレベルは全然違うんだろうけど。
でも後手も△3八角と打って馬を作った上に桂得になったから、これでも多分良い勝負なんだろうなって思ってたから、次の一手はびっくりしたな。
△3一玉。
これは自分が悪いと思って我慢して指してる手。
次の▲3五歩には△2二銀と引いて受けるしかないけど、壁銀で酷い悪形になるからね。
普通に応じたら勝てないと思って、辛い状態を受け入れたんだ。
我慢と、辛抱。
何か、今の私みたいじゃない?
それで勝てるかどうかは、ともかくね。
▲3四歩△2二銀▲9四歩△3九馬▲4四飛△4三歩▲4六飛△2八馬▲4八飛△3七馬▲6八飛△6五銀▲5五角△5九馬▲6三歩△同 金▲6五銀△同 桂▲7二銀△5四金▲7三角成△4一飛▲6三歩
夕方、今度は凛が見舞いに来た。
「プロデューサーが物凄く心配しててさ。様子を見てきてくれって」
「あはは、プロデューサーは心配性だよね。ただの風邪だから心配いらないよ」
「私も気になってたからさ。奈緒は思ったより元気そうだったって言ってたけど。はい、これお土産のフライドポテト」
「えっ、フライドポテト!?・・・って、ぬいぐるみじゃん。これじゃ食べられないよ」
「食べるのは元気になってからだよ」
奈緒みたいにお粥お粥言わないのはいいけど、これはこれでどうなの。
でも最初に凛に会った時は、こんな冗談を言う感じじゃなかったな。
とてもストイックな子だっていう印象は今も変わらないけど、雰囲気は柔らかくなった気がする。
「王将戦見てるって聞いたけど?」
「あー、うん。でもいつの間にか先手の方が良くなってて、何でか分かんないんだよね」
「そっか」
「これは多分、手順前後があったんだね」
「てじゅんぜんご?」
「48手目に△8六歩と突き捨てて▲同銀に△6五歩としたでしょ。そうじゃなくって、先に△6五歩を入れてから後で△8六歩とするべきだったってこと」
私の頭の中で駒がパチパチと鳴った。
シューって頭から熱が出そうになる。
風邪の熱じゃなくてこれはただの知恵熱。
「どういうこと?どっちみち指すんだから一緒じゃないの?」
昨日のパス合戦もわけがわからなかったけど、これもわからなさではいい勝負だ。
「えっと、本譜の進行だと△6五歩に▲同歩以外の手が指せたでしょ」
「ああ・・・▲4六角って、角を取ったんだっけ」
「そうそう。でももし△8六歩としたところで△6五歩としてたら例えば・・・」
凛はスマホの将棋盤アプリで仮の変化図を動かした。
「△6五歩に▲4六角は△同 歩▲6五歩△同 桂▲6六銀ってなるね」
「これ、実際の進行とどう違うと思う?」
「あっ!▲6六角が打てないんだ!」
あの角は見てて嫌だなあと思ったので印象に残ってる。
それが打てないのなら、確かに後手が有利になるのかも。
「その後の▲4四飛も羽生名人らしい手だね。▲4四飛に△4三歩と打たされたせいで△4一飛って回った時に、飛車が先手陣に直通してない。それどころか成り駒に責められそうで負担になってるね」
「なるほどねえ。じゃあ85手目の▲6三歩は?銀成った方が早いんじゃないの?」
「ううん。銀成は▲5二成銀の時に飛車を逃げられてしまうから、銀は7二に置いたままの方がいいんだ」
「一見遠回りに見えて、これが一番の近道ってことなんだね」
「そうだね」
急がば回れ・・・か。
私の人生も、随分回り道をしてきたと思う。
今だってそうだ。
いや、仲間がレッスンしている間に私は寝ているのだから、回り道にもなってない。
ただ、立ち止まってるだけ。
「はあ・・・」
思わずため息が漏れた。
「どうしたの?」
「あ、ごめん。何でもない」
凛や奈緒は将棋も強くて、体も健康で、思わずコンプレックスを感じてしまった・・・なんて、とても言えない。
それを言ってしまったら、私はもうトライアドプリムスとして胸を張って二人と並べなくなる。
そんな気がした。
それに、いつもこんなことを思ってるわけじゃない。
たまたま体調を崩したから。
昨日の夜、変な夢を見たから。
少し弱気になってしまっただけだ。
だから。
「奈緒がやたら気合い入ってたよ。今のうちに加蓮に追いつくんだって」
「はあ?」
誰が?誰に追いつくって?
「でも私も分かるかな。加蓮の歌やグラビアのビジュアルって、私達にはない深みがあるっていうか・・・」
「本当?」
ちょっと信じられない。
「病弱だったから、悲劇のヒロインっぽい感じが出てるんじゃない?」
冗談めかして言った。
自虐。
言わずにはいられなかったこれが精一杯の臨界点。
「いや、それは違うと思う」
きっぱりと。
凛は否定した。
「私達と加蓮が生きてきた時間に違いなんてないよ。そりゃ私は加蓮みたいに体が弱かったわけじゃないけど、だからって何事もなかったわけじゃないし」
「うん」
知ってる。
何かを背負ってるのは私だけじゃない。
悲劇のヒロインぶるのは、ちゃんとアイドルをやるって決めたときにやめた。
「何を経験したか、じゃないんだよね。もちろんそれも大事だけど。それよりも、その経験をどう活かすかってことの方が・・・多分、羽生名人や郷田王将はそれが分かってるんだと思う」
「私には、それができてるっていうの?凛や奈緒よりも」
「個人の感想だけどね。私は、そう思ってる」
凛はまっすぐに私の目を見つめて言った。
凛の視線は有無を言わせないくらい強くって、私は黙ってうなずくしかない。
「まあ、ダンスはすぐよれよれになるから一番駄目だけど」
「ちょっとー!そこでそれ言う!?いい話してたんじゃないの?風邪で落ち込んでる私を励ますようなさあ!」
抗議する私に凛はくすくすと笑った。
「それだけ元気があれば大丈夫だね」
「あ・・・」
「加蓮だけが何もかも劣ってるなんてことは絶対にないよ。それに、私達の能力は初めから全然横一線じゃない。だって本当に実力が何もかも並んでたら、同じ人間が三人いるのと一緒でしょ?でこぼこだから、いいんだよ。きっと」
「もう・・・」
やっぱり、私のことなんかお見通しなんだな。
ちょっと悔しいけど、悪い気持ちではないかな。
「あ、もう終局するんじゃない?」
凛がまたスマホを見た。
先手が壁になっている後手玉を着実に追い詰めていき、程なく郷田王将が投了した。
「終わったね」
「手順前後を咎めてからの羽生名人の指し回しは見事だったけど、郷田王将の作戦は有力そうだから今後も指されると思う。それに悪くなってからの辛抱は流石だったね。△3一玉は我慢と言ってもなかなか指せないよ」
結果だけを見ればこれは羽生名人の快勝譜なのかもしれない。
だけど、それだけじゃない。
「将棋って人生と似てる気がする」
「そう?将棋は将棋じゃない?ああ、いや・・・でも、そういうところなのかな」
「・・・?」
「ちょっと長居し過ぎたね。そろそろ帰るよ」
「ううん、ありがとう。お陰で気が晴れたよ」
奈緒と同じように部屋を出ようとする凛を、今度は私が呼び止めた。
「私がいないからってサボったら駄目だからね!」
「ふふ、冗談でしょ」
△6六歩▲6二歩成△6七歩成▲同 飛△4二飛▲6三銀不成△5五桂▲6六飛△8五歩▲5二と△8六歩▲5一馬△8七歩成▲同 金まで先手羽生名人の勝ち
その夜、また夢を見た。
昨日と同じ、シャボン玉みたいな夢。
そこでは昨日と同じように昔入院していた病室で、また幼い私が暗い顔をしていた。
幼い私は私にこう言う。
何もかも無駄だから、初めから諦めてしまった方がいいと。
だから私はこう答えた。
「大丈夫。あなたにはまだ分からないかもしれないけど、これから信じられないようなことがたくさん起こるの。本当に夢みたいな、シンデレラの魔法みたいな、キラキラした世界が見られるんだ。諦めてる暇なんて、ないんだから」
「・・・」
「怖がらなくていいの。色んな人が支えてくれるよ。そして私も誰かを支えてる。だから、倒れないんだ」
幼い私は顔を上げた。
きょとんとしてる。
まだ、分からないよね。
でも、もう暗い顔じゃない。
今はそれでいい。
「あー、だけどアイドルってあれで意外と特訓とか練習とか下積みとか努力とか気合いとか根性とかの世界だからさ。体力は絶対いるよ。だから今のうちに鍛えておいた方がいいかもしれない」
「えー、それは嫌だなあ」
「こいつ・・・」
なんてやつだ。
いや、これが私だったかな。
プロデューサーと出会った頃の。
いつから変わったんだろう。どうやって変わったんだろう。
大切なことになのに、はっきりと思い出せない。
いいや。
いつかきっと分かる時が来る。
私もまだまだ変われるんだ。
体力に不安があるのは今も同じ。
今度こそ、ちゃんと鍛えないとね。
明日にはきっと元気になってる。
そうしたら凛と奈緒とプロデューサーと、たくさんレッスンするんだ。
ライブではたくさんのキラキラの中で歌って踊る。
そう、いつか憧れたシンデレラみたいに。
だから今はおやすみ、加蓮。
《北条加蓮》