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Triad Primus『鼓動と、波紋。それから…』第41期棋王戦五番勝負 第4局 渡辺明棋王-佐藤天彦八段

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私には、二人の親友がいる。
渋谷凜と、神谷奈緒
同じプロダクションの同僚であり、ユニットのメンバー。
大切な仲間であり、同時にライバルでもある。
アイドルという職業柄、正面切って戦うわけではないけれど、競争意識は間違いなくある。
何となくでアイドルを始めた私が全力で走ることが出来るのは、彼女らに引っ張り上げられた部分もあるだろう。
二人に置いて行かれないように、肩を並べられる自分でいられるように。

 

凛は問いかけだ。
その姿勢が、私に疑問を投げかける。
「あなたはそれでいいの? それで本当に満足できる?」
奈緒は答え。
その振る舞いが、私に解答を教えてくれる。
「これがあたしの全力だ」
と。
彼女たちが全力でいるから、私自身もまた全力でなければいられない。
その関係がシビアだけど心地よくて、二人と並んで立てる私でいるために、私は頑張れるのだと思う。

翻って、渡辺棋王と天彦八段というかつてからの盟友の二人が、タイトル戦という頂点の舞台でぶつかるのを見るとき……落ち着かない、不安な感情が芽生えることも、また事実だった。


棋戦:第41期棋王戦五番勝負 第4局
持ち時間:各4時間
先手:渡辺明棋王
後手:佐藤天彦八段

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛△3三角 ▲3六飛 △8四飛▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩 △5二玉 ▲5八玉 △7二銀

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「天彦ほどの勝ちっぷりは見たことない。タイトルを取れない様では、酷なくらいだ……って言ってたよ」
レッスン前のストレッチ中。屈伸運動をしながら、私の頭にあるのは今日行われる棋王戦第四局のこと。
熱戦の末、第三局を敗れた挑戦者の佐藤天彦八段はカド番に追い込まれていた。
今日敗れれば、棋王戦は終わる。
私が口にしたのは棋王戦ではなく王座戦の時の展望予想で、渡辺棋王が天彦八段の講評で、そんなことを言っていたことについてだ。
「ほらほら、勝負師がそんなこと言うから自分の身に降りかかってくるんだって!」
何となく不満な気持ちでいた私はそんな思いを吐き出す。
「単純に仲の良い方を応援したんだろ?羽生名人なんて王座失ったってタイトルまだ三つもあったわけだしさ」
奈緒にそう言われても、私はまだ釈然としない。
「もう、そんなのでいいわけ?」
「まあ、王座戦は他人事だったからな」
「はっきりしてるよね」
奈緒も凛も、身も蓋もないことを言う。
「もう、それがフラグになったらどうするのよ!」
口を尖らせた私に、凛と奈緒はきょとんと顔を見合わせて、それからクスクスと笑った。
「ちょっと、何で笑うのよ?」
「いやー、だって……なあ?」
奈緒に水を向けられた凛も微笑みながら頷く。
「加蓮は渡辺さんに厳しいよね」
「そ、そんなこと……」
いや……将棋界の一番長い日でも、渡辺棋王が消化試合をしていることについて不満を口にしたら、ばっちり文香さんに書かれてしまっていた。
後日読んで、顔から火が出そうだった。
「分かるよ。応援してるからこそ……だよね?」
そう言う凛は嫌に優しい、慈愛に満ちた顔だ。
「い、いや別に私はそんな……」
思わぬ流れに屈伸運動もいつの間にかストップしている。
「あれだ。ツンデレって奴だな!」
そう言って奈緒がぽん、と手を叩く。
「いや奈緒には言われたくない(と思うよ)」
即座に私と凛そう返したので、奈緒はちょっと不機嫌になった。ストレッチが終わるまでの間だけだけど。

「レッスン前まで中継見てたよね。どんな感じだった?」
そっぽを向いてしまった奈緒とは逆に、凛が棋王戦の流れについて尋ねる。
「えっと、戦型は予想通り横歩取りだった。で、後手が△8四飛5二玉型に、△7二銀って囲う形」
「うん」
例の飛車ぶつけの筋を見せた、今や後手横歩のスタンダードな形といっていい。
「先手はあんまり見たことない形だったような……」
「そうなんだ?」
「そうだ。後手と同じ形だった」
「中住まいで▲3八銀ってこと?」
「それそれ」
「ちょっと珍しいね。▲3八銀とする時は▲6八玉型が多いイメージがある
何の因果か、うちの事務所はやたら将棋が強い娘が多い。
凛はその筆頭だ。事務所内では幸子ちゃんが横歩取りが好きみたいだけど、凛もそれなりに知っているようだ。
「確か、次に▲3六歩ってするのを屋敷九段が採用してたんじゃないかな。そうなれば屋敷流だね」
よくご存知で。
「それで、この囲いはどういう意味があるの?」
▲3八銀は金銀の連結がいいから素早く動けるってことなんだろうけど、▲5八玉は難しいね。後手は飛車ぶつけじゃなかったら7筋から仕掛けてくるわけだから、▲6八玉より安全ってことなのかも
「はぁん……」
「未知の形だから分からない部分が多いね。今回の対局なんかで優秀だと認められたら、これから増えていくかもしれないよ」
そう言ったあたりでトレーナーさんがレッスン場に入ってきた。のんびりストレッチはおしまい。これからは地獄のレッスンで、雑談する余力などない。

 

▲3八銀 △7四歩 ▲3六歩 △7五歩 ▲3五歩 △7六歩▲3七桂 △2七歩 ▲2九歩

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△7四飛 ▲7五歩 △5四飛▲7六飛 △2四飛 ▲3九金 △8二歩 

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厳しいレッスンを終えてようやくお昼ご飯。
早速中継を見て現局面を確認……とはいかない。凛と奈緒が現局面まで飛ばすのを許してくれないのだ。
一手一手考えながら追いかけていかないといけない。
「△2七歩はどう受ける?」
「▲2九歩でいいだろ。銀で取ったり金寄ったりする方が不安だ」
適当なところで空気を読んで画面をタップ。
▲2九歩。奈緒、正解。
「この交換は先手にとってもそんなに損じゃないって見てるんだね」
「角交換振り飛車でもあった形でさ。これは歩が伸びきってて後手はこの形からこれ以上ポイントをあげられないんだよな。2筋の歩を打って受けの手が減ったことと、戦場を盤面左に限定できたことで先手玉の狭さとプラマイゼロってところかな」
なるほど。私は▲2九歩の形が屈服したみたいで癪だからやらないものかと思っていた。ものは考えようだ。
「△7四飛で▲7五歩を打たせて△5四飛と途中下車」
「▲7六飛で2筋が手薄になったから△2四飛と回って、▲3九金と受ける。この形がどこまで祟るか」
「あるいは祟らないか」
凛と奈緒の会話は時々宇宙語のように聞こえる。
「将棋星人応答せよ…」
「……何か言った?」
「いえ何でも……最後の△8二歩はどういう意味?」
「8二の地点を埋めて▲8二角の筋を消してる。これも変わった形だけど、他に方法もあまりないしね」
「なるほど」
うーん。とても勉強になる。
だけど、指し手の表示が緑色になっているのを見てやるせない気持ちも、お分かり頂けないだろうか?

 

▲7七桂 △5一角▲6八銀 △3三桂 ▲9六歩 △2三銀 ▲9五歩 △1四歩▲1六歩 △4二玉 ▲8五桂

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午後からは今度出演するドラマの撮影。
新撰組がテーマのドラマで、池田屋事件では留守だった桂小五郎役の私と攘夷志士役の奈緒の出番はそんなにないけど、凛は土方歳三役だから主役級だ。
そんなこともあって、プロダクションでは将棋と並んで新撰組もアイドル間でちょっとしたブームになっていた。
新撰組もきつい組織だよなぁ」
芹沢鴨暗殺のシーンの撮影中。出番のない私と奈緒は離れたところからそれを眺めていた。
「どういうところが?」
「んー、やっぱり身内であれだけ血を流し合うっていうのはちょっとなあ。芹沢鴨……っていうか、みくかあれ」
「あの鴨、自分のことみくって言ってるしね」
いいのだろうか?
まああれでOKが出てるんだから別にいいんだろう。他にもハチャメチャな役作りしてる娘はいるし。闇の言語で喋る松平容保とか。
そう思ったら未央が真面目に近藤勇の役作りをしていたりするし、全体として非常に混沌としている。
「あとまあ、山南敬助とか」
「……そうだね」
奈緒の言いたいことは分かる。
仲間同士で争うっていうのは、やっぱりね。
「そんな悲劇的なところも、新撰組の人気の一つなのかもしれないけどなぁ」
そんなことを考えると、このドラマがコメディタッチなのはありがたいかもしれない。
時刻は三時過ぎ。
そろそろ局面は動いているだろうか?
スマホを見てみる。奈緒も横から覗き込む。
凛といい、何故に自分のを見ようとしないのだろう。
「お互い手待ちだな。プラスの手がないんだ。だから端とか△2三銀とかを触って相手に手を渡してる」
「どっち持ち?」
「んー、先手だな。そういう流れになった時、一歩得って実利は大きい気がする」
まだ形勢がどうこういえる状態じゃないけどな、と奈緒は付け足す。
「お互い待つ手がなくなった時が……決戦だ」
「決戦」
対局者の二人、渡辺棋王と天彦八段は友人同士。
新撰組とは違い、彼らが争うのはあくまで将棋……盤上の駒を動かすだけのボードゲーム。血を流すわけでも命のやり取りをするわけでもない。
将棋が終わり、駒を、盤を片付けたらその世界は閉じる。
しかし、この盤上での戦いが終わったとき、それでも彼らはまた元の仲の良い友人二人に戻れるだろうか。
タイトル戦で一手指す毎に彼らの距離は近づき、そして離れて行っている。
決断の▲8五桂。
戦いの始まり。

 

△7三桂 ▲同桂成 △同 角▲4五桂打 △4一桂 ▲7四歩 △6四角 ▲3三桂成 △同 桂▲6五桂 △7五歩 ▲5六飛 △5二金 ▲7三歩成 △同 銀▲同桂成 △同 角 ▲3三角成

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撮影が終わったのは五時過ぎ。
今日の仕事はこれで一段落。あとはゆっくり対局が見られる。
夕食はファミレスになった。
奈緒は不満そうだったけど、激しい殺陣を演じた直後の凛は考えるのも面倒くさいという風情だったので、私の希望が通った。
途中千日手模様になっていたが、さきほど奈緒が言ったように模様は先手の方がいい。千日手にはしづらい。よって▲6五桂と打開。
△7六桂を見せられている先手はさらに激しく動く。
▲3三角成と馬切りの強襲。
「先手良し」
凛と奈緒が声を揃えて言った。
私はポテトをつまんだ。

 △同 玉 ▲3四桂 △2五桂▲4一銀 △3七桂成 ▲5二銀成 △2八歩成 ▲同 歩 △5四歩

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先手良しを断言した二人だったが、すぐに表情が曇り始めた。
というか、同玉のあとの▲3四桂の時点でもう不思議そうにしていた。
「▲4五桂かと思ったんだけど、これはひねってるよね」
「少なくともシンプルじゃないな」
「じゃあまだ先手が良いとは思ってないんだね」
良いときはまっすぐ明快に指しゴールに進む。悪いときはひねって指して相手のミスを誘う。
良い、と思われていた渡辺棋王がひねった一手を指す。
局面がややこしくなって、彼我の差は曖昧になる。
△2五桂は敵の打ちたい所に打ての一着。
▲2五銀の飛車取りを受けつつ△3七桂成の反撃を狙っている。
「一手で二つの狙いがある手だね」
これが将棋の面白いところで、お互いに一手ずつしか指せないゲームなのに、同じ一手でも指さない方がマシな一手もあれば、一手指しただけで二手分三手分指したような効果を発揮する指し手もある。
「だからその分、差は縮まる」
「△5四歩もいい手だね。▲同飛なら△6六桂▲同歩△7六角が王手飛車になる」
プロは王手飛車した方が負けるというけど、これはされた方が負けるやつらしい。
ごくりとつばを飲もうとするけど、口の中はもうからからに乾いていた。
凛の目つきもにわかに険しくなってきた。
「これはもう、分からないよ」


▲7四歩 △6四角 ▲5四飛 △6六桂 ▲6九玉 △7八桂成▲同 玉 △6六桂 ▲8八玉 △2六飛 ▲2七歩

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ファミレスでは落ち着かないし、生放送の中継も見られない。急いで事務所に戻る。
薄暮の、日中で最も視界が悪い時間帯。
帰り道を早足で歩きながら、凛と奈緒の霞んだ背中を見て思う。
今、私達は仲間で、同じユニットで、親友同士だ。
一緒に歩んでいける。
互いの成長が互いのためになって、トライアドプリムスとして高みに登っていける。
望んだって得られない、幸福な関係だ。
だけど。
それがいつまで続くのかは分からない。
これは、あくまで仕事の話。
例えば何かの舞台で主役を張りたいとか、どうしても歌いたい曲があるとか。
いつか、互いに譲れないもののために、私達は決定的に対立するかもしれない。
棋王の座を争う、二人のように。
もし、そうなった時。
私は……。
「ねえ。凛、奈緒」
二人の足が止まって、同時に振り向く。
逆光で表情は見ない。
「……何?」
「どうした?」
答は知ってる。
『お互い全力でやって、恨みっこなし』
それだけ。
だけど、それだけのことが、私には怖く感じられたから。
「ごめん、何でもない」
そう言って、私は微笑んだ。
向こうからは、私の表情は見えている。
二人は小首を傾げてからまた振り返り、早足で歩き出す。
事務所に戻った直後の一手は▲2七歩。
渡辺棋王も持ち時間を使い切り、両者一分将棋に入る。

△同成桂▲2五歩 △4五角

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▲6四飛 △同 歩 ▲5六桂 △7八飛▲9七玉 △3四銀 ▲同 歩 △同 玉 ▲2四金 △3五玉▲5三角 △4四桂

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▲3六歩 △同 飛 ▲2七銀 △5六飛▲同 歩 △2七角成

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難解の終盤をお互いに一分で指し継いで行く。
先ほどの▲2七歩は盤上の最善手ではなかったかもしれない。手を渡して、相手に判断を委ねる実戦的なだ。
そういう指し手が、最善手よりも必要とされる状況。
文香さん風にいえば、将棋が神のものから人のものになる、か。
真理を追究するよりも、今はただ勝利を。
「▲2五歩は▲4五桂までの詰めろだね」
「それは簡単にほどける。飛車で取るか△4五角を打つか……飛車ならまた手渡しに近いから均衡した状態が続くけど……」
角なら、と奈緒が言いかけたとき天彦八段の手が伸び、盤上に角が放たれる。
「打った」
極限の状態で、それでもなお盤上の真理を探してしまうのは、棋士という存在の業なのかもしれない。
今にも捕まりそうなぎりぎりのラインを、中段玉が泳いでいく。
「捕まらない……か?」
奈緒がそう呟いたのは104手目に△4四桂と合駒を打った局面。
「桂合いして、それで後手が……」
「逆転した?」
そう尋ねた。
多分……と凛が小さな声で言った瞬間に▲3六歩と最後一歩を使って王手。それは大駒に利きを遮る焦点の歩。
「△同角は一手詰み。△同玉は▲6四角から捕まる。△同飛だよ」
「そう取らせてから▲2七銀が継続手だろうけどそれは……」
「△5六飛▲同 歩 △2七角成で後手玉は捕まらない気がする」
凛と奈緒はさっさと継ぎ盤を動かす。実戦よりおそらく数分後の未来の局面を作る。
△2七馬がとても手厚く見える。
「これで後手の……勝ち?」
その形勢判断に、私はホッとしていた。
正直に言おう。私は今期棋王戦五番勝負で、渡辺棋王の方を応援していた。
まあ黙ってただけで皆にはもうバレていたのだろうけど、何となくこの事務所は天彦ファンが多い感じなので少し遠慮していたのだ。
それなのに私がこんな感情になったのは、もし先手が、渡辺棋王がここで勝ってしまえば、棋王戦が終わってしまうからだ。
ここで終わるのは、すなわち天彦八段がどうしようもなく敗北を喫することを意味する。
盟友の一人がもう一人にどうしようもない挫折を与える任を負うことになる。
いつか私達にもあり得る未来。
私が勝つのか負けるのかは分からないけど。
その瞬間を直視する覚悟が、私にはあるのか?
しかし、天彦さんが勝てば、番勝負は続く。
薄暮の帰り道、凛と奈緒にあのことが言えなかった私は、今決着がついてしまうのを恐れている。
△5六飛と飛車を切って道を開け、銀を取りながら急所に△2七角成が指される。
上部に手厚い馬。
これで後手が勝てるかも知れない。

 

▲7七桂

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バシリと、打たれた一手。
▲7七桂。
「は?」
「え?」
すぐには意味が掴めず呆けた声が漏れる。
状況を把握するのに時間が掛かる。
まず飛車筋を遮って、先手玉は詰めろを逃れている。それから6五の地点を塞いでいるから、▲3四飛から追っていった時に後手玉を詰ますのに役立っている……のか?
難しい。分からない。
闇から手招きするような、怪しい一手。
一分という時間の中で天彦八段が示した解答は△8五桂だった。

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局面が進む中、私の頭の中にあり続けたのは▲7七桂の一手。
あまりにも峻烈に印象を残している。
「△8五桂▲9六玉 △8八飛成……だけど△8八飛成は詰めろじゃないよ」
「そんな、それじゃあ……」
「絶体絶命だった先手玉は助かった」
じゃあ、後手は?

△8五桂▲9六玉 △8八飛成▲3四飛 △4五玉 ▲6四角成

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一番棋力が低い私だって一目で分かる。
もう、雁字搦めだ。
「そんな……」
私の呻きに、もはや凛も奈緒も応じない。
ただ、じっと中継画面を見つめている。
多分、もう分かっているのだと思う。
先手玉に詰みはない。
「要するに、通ったってことだよな。あの手」
「▲7七桂?」
「あんな手があったなんて……」
渇いた口から絞り出すように言葉を発する。
「ねえ、凛。奈緒」
改めて彼女らの名前を呼ぶ。
無言で、首だけ回してこちら見る。
三十秒、四十秒という声が響く。
「私さ。最初は渡辺棋王の方を応援してた」
「そうだったね」
「けど逆転した時は、天彦八段を応援したの。第五局まで行って欲しいって」
「なるほどな」
「でも、▲7七桂を見て分からなくなった。私が見てるものは何なんだろうって」
「…………」
凛と奈緒も、適切な言葉を持たない。私と同じように。
「ねえ。いつか、その時は訪れると思うんだ。私達は今は三人で一組だけど、いつか……」
もしかしたらそれはそう遠くない未来かもしれなくて。
私達もまた、渡辺棋王と天彦八段のように。
「争わないといけなくなる時が来るなら、持てる全力できて。私も全力で応えるから。それで決着がついて、勝者と敗者にはっきり別れる結果になったとしても、それでも……」
「その中にこそ、名局が生まれたから。私達も、その時は……うん」
凛が私の言葉を引き継いだ。
私は何だか胸がいっぱいになって涙が出そうだった。
そんな私を奈緒が抱きしめる。
「ちょっと、奈緒?」
「負けないからな。私、負けないから」
「うん……」
鳴り止まない鼓動に、波紋のように広がる感情。
顔を上げて画面を見る。もう盤面を映してはいない。これから投了を告げる対局者の姿が映っている。
天彦さんががっくりとうなだれている姿を見るのはつらい。彼のそんな姿は見たくないのだ。思わず目を逸らしたくなったけれど、私は、私達は最後までそれを見届けた。
この酷薄さの中にこそ今、後世まで伝わる名局が生まれたのだという確信があったから。

 

△9九龍 ▲8五玉 △8三香▲7五玉 △9五龍 ▲8五銀 △同 龍 ▲同 桂まで125手で先手の勝ち

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ちなみに▲7七桂の局面では△8五金と打ち、以下▲3四飛△4五玉▲4六歩に△同玉とするのが正解で、それで後手勝ちだったそうだ。
だが▲7七桂に△8五金は読みの優先度が高くない。また最後の▲4六歩に△同玉も指しづらい手だ。
一分将棋のうちにこれらの手を指せることこそが、将棋の神様から絶対特権を得ることなのだとしたら、残酷なものだ。
神様も、将棋も。
感想戦が終わった後も、二人は変化を話し合いながら会場に向かっていた。
その写真を見ながら、でももうこの二人は昔の距離には戻れないのだろうな、と思った。


北条加蓮