鷺沢文香『荒れ野に咲く花は』(第74期名人戦七番勝負第2局 佐藤天八段-羽生名人 一日目)

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 先日、ドラマの脚本を書く機会があった。
 事務所のアイドル達の自主製作ドラマで、真剣師となったアイドル達が己の大切なものを賭けて将棋で勝負をする、という筋書きのものだ。
 事務所の皆が将棋に熱中してからというもの、自分もいっぱしの棋士を演じてみたいという願望はそれぞれにあったらしく、忙しい合間を縫って積極的に撮影に励んでいる。

  かくいう、私もその一人である。

 私は脚本担当で、はじめは監修程度だったのだけど、第三局にきて全面的に私一人で手がけることになってしまった。
 幼い頃から色んな物語に触れてきたが、実際に自分で紡いでいくとなると話は別で、何どうすればいいものか、まるで空を掴むようだった。
 苦心しつつも何とか書き綴っていたのだが、その中で私はこんな台詞を登場人物の一人に言わせた。

「私は将棋の神様に愛されていない」 

 この台詞を書いた時、どうにも不安で落ち着かない気持ちになったことを覚えている。
 これは、将棋に挫折した少女が再起する物語だ。
 だから彼女が将棋に対して一旦はそんな思いを抱くことは不自然ではない……はずだと思った。
 とはいえ不安なままの私が与えた台本を、みくさんは読み込み我が物とし、見事に演じた。
 演技者が作者の意図を超えるとは、こういうことをいうのだなと感心もした。
 だけど、示されたのはあくまでみくさんの解釈によるみくさんの答だ。
 私自身が疑問はまだ、宙に浮いたままでいる。
 将棋の神様はそれ自身が果てしなく強いのだろうか。
 人間よりも、コンピューターよりも、ずっと。
 神様は、誰かを愛したりするのだろうか。
 圧倒的な実績を持つあの人は、神様の寵愛を受けているのだろうか。
 盤上に、神様は存在するのだろうか。
 何一つとして分かっていない私が、随分不遜なことを書いたものだと、今更ながら少し呆れている。

 

  

棋戦:第74期名人戦七番勝負第2局
先手:佐藤 天彦八段
後手:羽生 善治名人

▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金▲6七金

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 足早に階段を登り、事務所の扉を開くと、目に飛び込んできたのは派手なピンク色の髪だった。
「あ、文香ちゃん。こんにちは★」
 城ヶ崎美嘉さんが読んでいたファッション雑誌から目を離し、私に向かってニッと微笑む。
 私は弾む息を落ち着かせつつ、ほっと胸をなで下ろす。
「よかった。誰もいなかったらどうしようかと……」
 時刻はもう夕方過ぎ。高校生組も学校を終えてぼちぼちと事務所に来る頃だろうとは思っていたが、まだ誰もいなかったら私はまた落ち着かない気持ちのまま助けが来るのを待つ羽目になっていた。
「そんなに慌ててどうしたの?」
「いえ、その……」
 改めて聞かれると少々気恥ずかしい。
「今日は名人戦第二局の一日目なのですけど……私ではよく分からないので、誰か詳しい方に教えを乞いたいと……」
 私なりに将棋の勉強はしているのだけど、なかなか上達しない。
 最近はライブのステージでも全体を見渡せるようになってきたというのに、数十センチの将棋盤に置かれた駒の利きを幾度も見落とすのは一体どういうことなのか。
 事務所の皆に追いつくにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
「あ、そっか。それで急いでるんだ」
 美嘉さんは一人合点がいったように頷くと、おもむろに共用タブレットを手に取った。
「それで……とは?」
「え、だって天彦さんの対局だし」
「ええ……」
 今日は晴れてるし、みたいな軽い口調で美嘉さんは言った。
 うう、どうも最近完全にそういう風に広まっているような気がする。
「え……い、いえ……そういうのとは……」
 何とか反論しようとしたけど、蚊の鳴くような声しか出ない。
「まあまあ、正月に書いた王将戦の展望、まっっったく当たらなかったから、ここでリベンジの機会を得られて嬉しいよ。フッフッフ……」
 美嘉さんは微笑みながらもその目は闘争心に満ちている。
 そういえば美嘉さんも以前にブログに記事を書いていた。なかなか蓋然性の高そうな予想ではあったが、蓋を開ければ率が低いと見ていた早囲いや、全くのノーマークの四間飛車穴熊なんて戦型まで飛び出していた。
「んー、あの時はちょっと定跡の進歩の速さを見誤ってたかな? それに第四局と第五局の間でまた羽生名人が海外行くなんて予想できないし。あれ書いた当時の認識で当たるわけなかったね★ まあそれはいいとして、今回の将棋は……へー、矢倉なんだ」
「天彦さんの矢倉は……珍しいように思います。私は、初めて見ました」
「何年か前はよく指してたけど、最近はないね確かに」
 天彦八段の主戦力と言えば、先手角換わり後手横歩取りである。
 その二つを軸に高勝率を維持し、次々とタイトルの挑戦を決めた。
 それなのに最近は先手が苦しいと見られている矢倉を選んだのはかなり意外だった。
「何かを変えるなら、今回がラストチャンスなのかもね」
「ラスト……とは?」
 あくまでアタシの想像だけど……と、美嘉さんは前置きしてから言った。
「昨年度は間違いなく天彦さんの年で、満遍なく活躍して将棋大賞をいくつも受賞したよね。だけど、最後の一線……タイトルだけは厚い壁に阻まれてる」
「う……そう、ですね……」
「今のままでは駄目かもしれない……と思ったなら、何かを変えるのはタイトル戦序盤のここしかないのかも」
「なるほど……」
 上手くいっている自分のスタイルを土壇場で崩すのは良くない、というのは普通の感覚だけど、タイトル戦はもう連続三回目である。同じようにやっても、またぎりぎりで届かないかもしれない。
 といって番勝負が煮詰まったあたりでスタイルを変えるのはあまりにもリスキーすぎる。
 七番勝負が始まったばかりのここが、違う自分を試す最後の機会だったのかもしれない。
「早くも正念場だね」

 

△4一玉 ▲2六歩 △5二金 ▲7七銀 △7四歩▲7九角 △3三銀 ▲3六歩 △3一角 ▲3七銀 △6四角▲6八玉 △4四歩 ▲7八玉

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「これは早囲い……藤井矢倉なのでしょうか?」
「んー、そのあたりちょっとややこしいんだよね」
 いつも明快な美嘉さんが珍しく言い澱んだ。
「元々、藤井矢倉は脇システムと片矢倉のハイブリッドのことを言ってたんだよね。ほら、こんな感じの」

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 美嘉さんはタブレットで盤面を示す。
「見たとおり脇システム形で角が向き合ってるから、角交換していくわけだけど、片矢倉にしてるから6九に角打ちの隙がないよね。かなり攻撃的な布陣★」
「しかし、この局面でなくても藤井矢倉と呼ばれているような気がするのですけど……」
「ここまでの駒組みに藤井流の思想が取り入れられたからこそ、廃れた戦法だった早囲いが盛んに指されていると思えば広い意味で藤井矢倉なのかもしれないけど……」
「早囲いも片矢倉も、それ自体は昔からあったものですからね……」
 どうも私は言葉に過敏なのか、定義のはっきりしない用語が飛び交っていると何だかもやもやしてしまう。
「テキトーだよ! 将棋の用語なんて広まったもの勝ちだからね!」
 明るい声に顔をあげると、宮本フレデリカさんの大きな瞳が眼前にあった。
 短大を終えて事務所にやって来たらしい。
「て、適当って……」
 それでいいのだろうか?
「いいのいいの! 偉い人が決めるんじゃなくて、多数決で決めるんでもなくて、なんとなーくみんなの中に浸透したものが使われるって、アタシは好きだよ?」
「はあ、なるほど……」
 確かに、言葉とは本来そういうものかもしれない。
「えっと……早囲いは後手の急戦が不安だと耳にしたのですけど、今回はどうなのでしょう?」
「とりあえずは大丈夫じゃないかな。急戦を匂わせるなら△5二金は保留して△8五歩は早めに突いてこんな感じの駒組みにするだろうし」

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「ンー、これに▲6八玉は……ちょっと怖い?」
「△8六歩▲同歩△同角って角切られると……。怪しいね。▲2五歩の方が無難かも」
 一口に早囲いと言っても、駒組みは本当に繊細なものらしい。
「どういうことでしょう……?」
「えっと、とりあえず△5二金が入るまで後手急戦は警戒した方がいいってことかな!」
「なるほど……」
 これで納得している私はフレデリカさんより適当かもしれない。

 

△3一玉 ▲4六銀 △4五歩▲3七銀 △5三銀 ▲4六歩 △同 歩 ▲同 角 △6二飛

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▲6八金上△4四銀右 ▲2五歩 △5五歩 

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「△6二飛というのはよく分からなかったのですけど……」
「▲同角△同歩で後手の駒が伸びてくるから、先手から角交換しにくくなってるんだ。さっき見せた藤井矢倉の基本形は先手攻勢で良くなりやすいから、それ以前に後手としては色々工夫してるんだね。4筋を切ってから……っていうのは見たことないけど」
 それから……と美嘉さんはタブレットをタップする。
 △5五歩、と後手が仕掛けたところで封じ手の局面だ。
「後手が積極的に動いて良くしにいってる感じだね。先手としてはちょっと面白くない序盤かな」 
「そうですか……」
「まだまだこれから! 勝負は最後の一手まで分からないんだから!」
「……そうですね」
 相手が羽生名人でなければ、ちょっとした差はどうにでもなるのかもしれないけど。
 だけど……。
「ま、本番は明日だからね!明日は朝から注目だ★」
「あ、終わった? 終わった?」
 さっき美嘉さんが持っていた雑誌を読んでいたフレデリカさんが棋譜を並べ終わったと見るやパッと立ち上がる。
「ありがとうございます。お二人のおかげで何とか局面が把握出来ました」
「うんうん、よかったよかった! 文香ちゃんの手助けが出来てフレちゃんも嬉しいよ~」
「いや、ほとんど説明したのアタシなんだけど……」
 嬉しげなフレデリカさんに美嘉さんが小さく口を尖らせる。
「それじゃ、行こっか!」
 そう言うや、フレデリカさんは私の手を取った。
「え?」
「文香ちゃんの化粧の秘密をアタシも知りたい! ということで、これからデパートのコスメカウンターに行きます!」
 フレデリカさんの言葉に、不思議そうに見ていた美嘉さんも俄然乗り気になったようだった。
「おお、いいね~★ こないだ文香さんのCM凄くよかったし、今度は私達が教えて貰わないと!」
「いえ、そんな……」
 教えるどころか、先日一人でファンデーションを買いに行った時、事前に予習した知識がBAさんにまるで通用せず青くなったことがある。あれはトラウマものだった。
「違う自分を試すなら、今がチャンス! でしょ?」
「うぅ……」
 そう言われると、もう私は抵抗できない。
 慣れない化粧をするのと久しぶりに矢倉を指すのとではやっていることもレベルも全然違うのに、我ながら何を考えているのやら。
 結局、コスメカウンターでも美嘉さんとフレデリカさんに教わってばかりだった。
 でもお陰で、次回こそは一人で行っても大丈夫なくらいの知識はついたと思う。
 新たな自分に会いに行こう、というのは歌の歌詞で私が特に好きな部分だけど、出会った後、その自分の真価を問われる時は来る。
 極限の将棋はあまりにもあからさまにそれを剥き出しにする。
 それが美しくもあり、少し怖くもある。
 明日私が目にするものを、この時の私は知らない。

(鷺沢文香)