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鷺沢文香『黄昏の丘にて』第87期棋聖戦五番勝負第5局 羽生善治棋聖-永瀬拓矢六段

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 出不精の私でも、一日における時間帯は日時計で何となく分かるものだ。日が登ってきたからそろそろ正午近いなあとか、空が赤くなってきたから夕暮れ時だなとか、おおよそは判断出来る。
 それが人の一生となると、どうだろう? 今が人生の何時頃なのか、誰に分かるというのか。
 私がアイドルを初めて、何年と経っているわけではない。
 おそらくまだ正午にもなっていないと思う。まだまだこれから、なのだろう。
 だけど、私もいつか最後のステージに立つときはきっと来る。それがいつ、どんな形で訪れるのかは分からないけれど、必ずその時は来るのだから。
 どんなことにだって、どんな人にだって始まりがあれば終わりがある。
 先日、茜さんと買った雑誌に掲載されていた先崎九段のコラムが、のどに刺さった小骨のように、ずっと心に引っかかっている。

『羽生ほど偉大な棋士はいない。彼は1人で世界を変えて見せたのだ。彼はシェイクスピアであり、ニュートンだった。そしてモハメド・アリだった』

 どんなに偉大な太陽でも、いつかは落日の時を迎える。
 羽生善治もまた、例外ではない。
 でも、彼の盤上での輝きはあまりにも眩しいから、時々、それを忘れそうになる。

 



第87期棋聖戦五番勝負 第5局
先手:永瀬拓矢六段
後手:羽生善治棋聖

▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲7八金 △9四歩

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「△9四歩ですよ! 矢倉でも角換わりでもありません!」
 タブレットの画面を示しながら、ありすさんはやや興奮した声音でそう言った。
 世間はもう夏休みである。平日の昼間の事務所でも、学生アイドル達が集まってわいわい言っている。
 私も試験にアイドル活動に軽い文学系ドラマの撮影にと、怒濤のような七月を何とか乗り切ってほっと一息といったところだ。
 とはいえ羽生棋聖と永瀬六段は、そういうわけにはいかない。
 これから人生を変えるような大一番が始まる。
 両対局者二勝二敗で迎えた最終局、永瀬六段が勝てば初戴冠。今後の棋士人生が大きく変わるかもしない。
 そして羽生棋聖も、今回ばかりは3-1=2……とはいかないだろう。
 先日の名人戦七番勝負において、急流を堰き止めていたダムに大きな穴が空いたという。蟻の一穴どころの騒ぎではない。
 名人というタイトルの持つ意味はそれだけ大きい。
 ここで棋聖まで落としてしまえば、本当に一気に崩れてしまうのではないかという不安感は、かつて私が羽生棋聖に対して抱いたことない感情だった。
 だからなのか、今日この日は、決着局となった名人戦第5局の二日目よりも、事務所の雰囲気がぴりぴりしていた。
 「矢倉はいいけど角換わりはちょっと……ということでしょうか。永瀬六段は前局の矢倉の内容が良くなかったというのもあるのかもしれせんね」
 私は見たことのない矢倉でしたけど……と、ありすさんは続ける。
 前局でカド番に追い込まれた羽生棋聖が採用した矢倉は、中原流急戦矢倉というらしい。二十年以上前に指され、そして廃れた作戦だそうで、もちろん私も見たことがなかった。
 私の目から見ても不安になるくらい後手玉は薄く、これで勝てるのだろうかと思ったが、結果は後手羽生棋聖の完勝。
 まさに疾風のような攻めだった。
 だから永瀬六段としては矢倉は選びにくかった、ということだろうか。
 それでも大一番で普段指さない角換わりを志向するのは大した度胸だと思う。
「△9四歩にはどのような意味があるのでしょう?」
「えーっと……」
 ありすさんはタブレットを見つめながらうーんと唸る。
「端が関係する変化は色々あるんでしょうけど、それはそれとして、大まかには力戦の将棋がしたいということだと思います。あまりにも研究にやられましたから」
「なるほど……」
 そういえば幸子さんが第一局の指し直し局は▲3五歩を△同歩と取った時点で終わっていた、と言っていた。ここが勝負所、と思われる箇所の先のもう少し先まで事前に予測して研究されているらしい。
 それを積極的に外しに行ったのが、第四局の中原流急戦矢倉であり、本局の六手目△9四歩なのだろう。
 番勝負が始まった頃のように、あっさりと相手の土俵に乗る余裕は、もはやないのだ。
「見ているだけで、緊張してしまいますね……」
 私の言葉に、ありすさんもまた神妙な面持ちで頷いた。
 

 

▲9六歩 △3四歩 ▲2五歩 △8八角成 ▲同 銀 △2二銀▲3八銀 △3三銀 ▲4六歩 △7二銀 ▲4七銀 △6四歩▲3六歩 △6三銀 ▲3七桂 △4二玉 ▲4八金

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 夏休みというだけあって、事務所内の人の出入りも多い。とはいえ夏休みで学業がない時期というのは、よりアイドル業に集中すべき時期ということでもあり、そうのんびりとはさせて貰えない。
 茜さんは川島さんらと一緒に海まで合宿に行ったし、ありすさんも午後からは別のお仕事、他の人たちも大なり小なり予定が詰まっているみたいだ。
「▲4八金ですか」
 見覚えのある形に、ありすさんが目を瞬かせる。
「正調角換わりでソフトが好む陣形ですね。ここから▲2九飛と引けば隙がない陣形になります。対一手損角換わりは棒銀や早繰り銀といった急戦系の作戦が採用されることが多いので、永瀬六段が腰掛銀模様にいたのは意外だったのですけど、これをやりたかったんですね!」
 ありすさんがはきはきと答える。心なし嬉しそうだ。そういえばありすさんは事務所内でもコンピューターの将棋に強い関心を持っている方だった。
 そういった指し手が大一番で採用されるのは嬉しいのかもしれない。
「それは一手損角換わりでも有力なのでしょうか?」
「どうでしょう? そもそも一手損角換わり自体をあまり見ないので……」
 ありすさんの言う通り、一手損角換わりは最近あまり見ない気がする。プロ棋戦といえば横歩取り、というくらいに横歩取りが多い。
 ただし一手損角換わりは、羽生三冠が追い詰められた一日制のタイトル戦でここぞというところで採用し、ことごとく勝利を収めてきた、いわば切り札ともいえる戦型でもある。

 

△5二金▲7七銀 △5四銀 ▲4五歩 △3一玉 ▲5六歩 △1四歩▲1六歩 △4四歩 ▲同 歩 △同 銀 ▲6八玉 △3三銀▲2九飛 △7四歩 ▲6六銀 △8五歩 ▲5八玉

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 お昼はシースーを早苗さんからご馳走になった。
 お寿司のことである。どうして逆に言うのだろう?
 よく分からないが、郷に入りては郷に従えというのでここでは早苗さんに合わせてシースーと表記する。
 シースー美味しい。
 一緒に来ていた幸子さんはわさびに挑戦してむせ込んでいた。
 幸子さんは以前もブラックコーヒーに挑戦してむせているのを見たことがある。別にそんな無理をしなくても、と思うのだけど、そういう年頃なのだろうか。
 私が14歳の頃はどうだっただろう。これといった記憶がない。
 その頃はまだ、本の中の世界が、私にとっての全てだった。
「先手作戦負けでしょう」
 幸子さんが歯切れよく断言する。
 棋聖戦の方は私たちよりも一足先にお昼休憩を終わって、対局が再開されていた。
▲5八玉じゃ手損だしねぇ
 早苗さんも同意する。
 一度6八にいった玉を5八に移動させたのだから明らかに損なのは私でも分かる。
 どの程度の損なのか、というと判断がつかないけれど。
「手損は将棋の中では一番軽い損ですよ」
「ほほう、その心は?」
「そもそも一手損角換わりなんて戦型が成り立つくらいですから、将棋は手損した方がむしろプラスになる局面もあるわけです。この▲5八玉も、ここまでの流れをボク達は見ていて、一度▲6八玉と上がってまた戻っているのを知っているからおかしく見えますけど、線ではなく点で見れば結構普通じゃないですか?」
「そうねぇ。先入観なく△8五歩の局面から次の一手を考えれば、▲5八玉も普通に候補に入るわね
 そういうことです、と幸子さんはさび抜きのイカを口に入れる。
「その辺りもコンピューター将棋の影響かもしれないですね。戦型に限らず、局面においての考え方にも変化を与えているのでしょう」
「まあ、それでも先手が面白くないのは確かよね」
 改めて、早苗さんが形勢判断を述べる。
 その言葉に何となくホッとしている自分に気づき、同時に後ろめたくもなる。
 永瀬六段の方だって応援したい気持ちはある。
 しかし、名人戦第二局で詰みを逃し第五局でもまた勝負手を逃した羽生三冠の姿と、それを見て受けた自身の衝撃は、いまだに尾を引いている部分はあるかもしれない。
 それでも羽生棋聖はなんでもないように、また勝ちだすのだろうと思っていた。
 しかし、そうはならなかった。
 自己最悪の六連敗、まあ六連敗くらい普通にありそうなもので、むしろ今までなかったことが凄いといえばそうなのだけど、かつてない形で歯車が狂ってしまっているのも一つの事実だろう。
 食べ終わり、寿司屋の暖簾を潜ると、外は何だか薄暗かった。
 夕立が来そうである。
 遠く雷鳴が聞こえてきて、私達は急ぎ足で事務所に戻った。

 

△6三金▲5七金 △7三桂 ▲4八玉 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛▲8七歩 △8二飛 ▲5八金 △4五歩 ▲5五歩 △4三銀▲5七銀 △4四銀左 ▲4五桂 △6五桂

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 お昼からの奏さんとレッスンを始めたころには夕立模様も去り、空も明るくなってきていた。
「髪、結構茶色になってるわね」
 不意に言われたので一瞬何の事だか分らなかったが、羽生棋聖の髪の色の話らしい。
「そうですね……」
 室内の写真でも何となく分かるくらいだから、屋外の写真ならばより目立つかもしれない。
 病は気からという。邪気を祓うのは小さなところから気分を変えるのが良いというようなことを芳乃さんが言っていた。
 眼鏡だったり髪の色だったり、それもまた対処法だ。
「文香も染めてみたら?」
 そう言って悪戯っぽく奏さんは微笑む。
「私は……明るめの服を着て帽子を被るだけでも精一杯でしたので……そういうのはまだ早いかと……」
「そう? 美嘉みたいな髪になったら皆驚くんじゃない?」
「ピンク色はちょっと……」
 自分が誰だか分からなくなりそうですらある。
「それで、指し手は桂の跳ね違い? かっこいいわね」
 奏さんは改めて局面図を見てから言った。
 ゆっくりと桂を取りに行く展開も考えられただけに、最も激しい決断の一着だ。
「勝因にも敗因にもなるところだけれど。これは多分良いほうに転ぶ気がするわ。▲4六銀左△4五銀▲同銀△3三桂▲5六銀に△4四桂は後手が良さそうだから」
「そうですか……」
 お昼からの、微差のリードを保ち続けているということだろうか。
「不安そうねぇ。羽生棋聖がそんなに心配?」
「心配……そうなのでしょうか。自分でも、よく分からないのです」
 あまりに長いトンネルの中にいると、もしかしたら出口がないのではないかというような気がしてしまう。
 そういう類のものなのだろうと自分では分析している。
 沈みゆく太陽が、そのままなす術もなく日没を迎えてしまうのを恐れている。
 ただの傍観者に過ぎない私がそれで右往左往するのも滑稽な話ではあるけど。
「羽生棋聖は勝つわよ」
「えっ?」
 あっさりと断言してから、奏さんは少し気まずそうに視線を逸らした。
「……もし羽生棋聖が負けるとしたら、序盤の早い段階で差をつけられてしまって、その差をキープされたまま最後まで逃げ切られてしまうパターン。今回はむしろ後手の模様がいいのだから、こうなればほとんど負けないと思うけど」
 力戦調だしね、と奏さんは続ける。
 永瀬六段は強いし相性も良くないのだろうけれど、総合力ではまだ羽生棋聖の方が優る。あらゆる勝ち方が出来るのが羽生棋聖の強みだ。
 最先端の将棋という土俵で勝てないのならば、他にやりようはある。
「でも、強い方が必ず勝つとは限らないものね。時代の変わり目なんかは特に。そういえば今期はそういう将棋をいくつも落としてるんだっけ」
 だから不調だとか、何かがおかしいとか、色々言われるのだろう。
「でも、やっぱり今回は羽生棋聖かしらね。勘だけど」
 奏さんは肩を竦める。
「私は永瀬六段も結構好きなんだけど。どちらもっていうわけにもいかないのがね」
「そうでしたか……」
 永瀬六段の凍てつくような冷静さと燃えるような情熱を同時に顕したような佇まいは、なるほど奏さんに通じる部分もあるのかもしれない。
「では奏さんもおでこに冷えピタを……」
「それは貼らない」

 

▲6六銀 △5四歩▲4六歩 △5五銀 ▲2四歩 △同 歩 ▲5六歩 △6六銀▲同 歩 △8四角 ▲6七金左 △7八銀 ▲7五歩 △6七銀不成▲同 金 △7五角 ▲7六銀 △6八金

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「△6八金……激しいわね」
 奏さんはやや低めのトーンで言った。
 レッスンの合間の休憩時間に中継の進行を見ている。
 休憩時間とはいえあまり褒められたものではないのかもしれないが、気になって仕方がない。
 ぱっと見ていきなり△6八金が表示されたのだから驚いた。
 金をただで捨てて、角を捌こうという手だ。確かに角筋が通れば先手玉は危なくなる……が、金をまるまる一枚あげてしまってもいいのだろうか?
 終盤は駒得よりも速度というから、時によっては金を捨てる手もありうるのだけれど、現局面は終盤というよりは、中盤の終わりかけといった頃合いだ。
 奏さんは何とも言えない表情だ。
「あまりいい手ではなかったですか?」
「うーん、でも他に代わる手もないし、その前の▲7五歩~▲7六銀がいい粘りだったということじゃないかしら」
「なるほど……」
「これはこれで、まだ微差を保てていると思う」
「それでも微差ですか……」
 勝っても負けても、そこには僅かな差しかない。
 これまで色々な将棋を見続けてきて、感じたことだ。
 羽生棋聖の実績は圧倒的で、想像を絶するほどに巨大な山と化している。
 しかし一局一局を見てみると、驚くほど際どい勝負の連続である。
 むしろ今まで勝ち続けてきたことに不思議さすら感じてしまうほどに。
 その僅かな差を埋める何かを、皆探しているのだ。
「良いほうが勝負手を放つっていうのもおかしな気がするけど。でも、そうなのね」
 奏さんは憂いを含んだ吐息を漏らす。
「これは羽生棋聖じゃないと指せないわね」


▲同 金 △6六角▲3八玉 △9九角成 ▲7一角 △7二飛 ▲1七角成 △2五香▲4九飛 △4四歩 ▲5三金 △同 金 ▲同桂成 △6六馬▲6七銀 △9三馬

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▲5八銀右 △5七金 ▲同 銀 △同桂成▲同 金 △同 馬 ▲5八金 △2七銀 ▲同 馬 △3九金▲同 飛 △2七香成 ▲4九玉 △3九馬 ▲5九玉 △4九飛▲6八玉 △8九飛成 ▲7八金 △5七角まで112手で後手の勝ち

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「先手は最後まで歩切れに泣かされたわね。もちろん、後手もそれを織り込んだ上での組み立てだったんだろうけど」
 △5七金に▲同銀と清算しなければまだ粘る余地はあったかもしれない。銀を打って千日手を見せるとか、▲4五歩と攻め合いに出るとか。
「いずれにしても後手が良かったとは思うけど、本譜よりは綾があったかもしれないわね」
「終わってみれば、完勝……でしたか」
 レッスンが終ったのは六時過ぎくらいで、その時点ではまだ終局はしていなかったが、5七の地点で精算したあたりでもう奏さんは後手の勝利を確信しているようだった。
「永瀬六段の方に何か錯覚があったのかもしれないけど、昼からずっと苦しい局面が延々と続いていたから、ある意味では仕方ないことなのかもしれないわ」
 検討室の継ぎ盤も止まっていたようだし、分かる人にはすでにはっきりとした局面だったのだろう。
 レッスン場から事務所まで、私と奏さんは夕焼けの街角を歩いていた。
「もし羽生棋聖がこの将棋を落としていたら……どうなっていたのでしょう?」
「あまり意味のある質問とは思えないわね。現実にはそうならなかったのだから、答えようがないもの」
「そうですね……」
 棋聖戦最終局を前に私が抱いていた不安感……これを落とせば羽生善治が一気に崩れてしまうのではないかという危惧は、そもそも現実にならないことによって回避された。
 それでも。

『巨大な夕陽が水平線にかかっている。沈む速度は分らないが、自然の摂理にのっとってゆっくりと陽は落ちてゆく。』

 それでも、先日読んだ先崎九段のコラムがやはり脳裏に過る。
 この結果もまた、鋭く劇的に消えるかもしれなかった光が、鈍く夕日が沈むように消えるようになっただけなのかもしれない。
 今期名人戦は、羽生は神話の存在なんかではなく、あくまで生身の人間であることを私に痛感させた。
 だけどそれでも私はまだ、この棋聖戦を見ている時の不安な感情とは甚だ矛盾しているようであるけれど……自然の摂理なんて超越して、沈むはずだった夕陽がまた昇りだすみたいな不思議なことが、現実に起こりうるのではないかという思いを、強く持っているのだ。

 

鷺沢文香