高垣楓と『第30期竜王戦七番勝負第5局羽生棋聖ー渡辺竜王』手記

f:id:yaminomabot:20171209014800j:plain

 

誰か人を励ますときに、「きっとまたチャンスが来るよ」というような言葉を口にすることにあまり屈託を感じなくなったのは、案外最近のことのような気がします。
それまでだって本心から言っているのに間違いはないのですけど、心のどこかで『そんな保証はどこにもない』と悟っている自分がいて、しかしそれはそれで真実には違いなく、そうやって出て来る己の言葉の空疎さが嫌になることはありました。
今は?
そういう抵抗は薄れてきたと思います。
周囲に若い子が沢山いるから、というのは確かにありますね。十代というのはやっぱり特別で、輝くような個性や才能、前向きさ、彼女たちにとっては躓きもまだ糧になるのだろうと思えます。
だけど、自分も含めた同年代から年上の人達はどうでしょう?
私達は未来の時間に限りがあることを知っていますから、次はないかもしれないという思いが段々と拭いがたくなっていくのですね。
「でも大丈夫」と、今のは私は自信を持ってそう言いきれます。
はい、大丈夫です。
私がそんな風に思えるようになったのはきっと……と、あら、申し遅れました。高垣楓です。アイドルをやっています。あとはそうですね、ダジャレが得意です。
今回はいわゆる観戦記というよりはもう少しだけ漠然と、表題にある第30期竜王戦七番勝負第5局を軸にしつつ、思うがままに書いていきたいと思います。手記は好きですか? ふふっ。よろしくお願いします。

 
持ち時間:各8時間
表題:竜王戦
棋戦:第30期竜王戦七番勝負 第5局
戦型:角換わり腰掛け銀
先手:羽生善治棋聖
後手:渡辺明竜王

▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲7八金 △8五歩▲7七角 △3四歩 ▲6八銀 △7七角成 ▲同 銀 △2二銀▲3八銀 △6二銀 ▲4六歩 △4二玉 ▲4七銀 △3三銀▲5六銀 △7四歩 ▲5八金 △6四歩 ▲6八玉 △6三銀▲3六歩 △1四歩 ▲1六歩 △7三桂 ▲9六歩 △8一飛

f:id:yaminomabot:20171209022156j:plain


この第5局の五日前に順位戦で、羽生棋聖と渡辺竜王の対局が組まれていました。
その将棋も角換わり腰掛け銀で、先手を持った羽生棋聖が快勝しましたね。
▲2六歩型に組むことで、▲2五桂と跳ねる余地を残しています。

f:id:yaminomabot:20171209121437j:plain

f:id:yaminomabot:20171209121318j:plain

こんな感じですね。
実のところこの新構想は非常に優秀そうで、後日行われた朝日OP杯三浦ー木村戦で同一局面が現れた際も、熱戦ながら後手の勝ち筋は最後まで見つからなかったという結末になりました。
渡辺竜王が僅か五日間で、この作戦にどのような解答を用意したのかも序盤の見所でしたね。
羽生流○○といった戦法が存在しないことが時々話に登りますが、羽生創案の新手・新構想は枚挙に暇がありません。
定跡修正型というのもありますけど、あまりに幅広すぎるのも一因かもしれないですね。それともこれについては羽生流と呼ばれるようになるのでしょうか。
興味があるところです。

 

▲7九玉 △6二金 ▲3七桂 △3一玉

f:id:yaminomabot:20171209125306j:plain

△3一玉は一見自然に見えますが大胆な一手です。というのも△4二玉型で戦うのが△8一飛6二金型の骨子でありますから、△3一玉は囲いに向かっているようで実はバランスが悪く当たりがきついのです……と、ここまで言い切るのは少し結果論じみていますね。当日見た時はまさか致命傷になりうるとまでは思いませんでしたから。
とはいえ順位戦の将棋に対する解答としてはやや凝りすぎていて、苦心の色が見えるのは否めませんか。
将棋ソフトの感覚を如何に取り込むかというのは現代将棋において重要なテーマですけど、考えてみると全てが計算の上で成り立っているコンピューターに感覚なんてものは存在しないわけで、思えば不思議な言い回しですね。
ある局面を見て、ソフトなら先手に+500点をつけるだろうと形勢を判断することと、実際にソフトが先手に+500点をつけることは根本的に違う行為ですから。
また人間にとって違和感のあるソフトの指し手も、将棋というゲームに本来から内包されていたものであるわけで、ソフトはこれまで人間の目では見えなかった闇深い部分に光を当てたのだという見方もあるでしょうか。discovery……覆いを取り除く行為ですね。覆いを外して見えたものが何であるかは、人間にとっては死活問題ですけど。
いえ、私はそこまで割り切れてはいません。新手、新構想というのはもっと創造的なものだと感じています。
もっとも81マスの深さにとってみれば、そんなのは些細な言葉遊びに過ぎないのかもしれませんけどね。

 

▲6六歩 △5四銀▲4五銀

f:id:yaminomabot:20171209133421j:plain

ガッチャン銀と呼ばれる銀ぶつけです。
文字通り、金駒がぶつかり合ってガッチャンと音を立てるような勢いのある一手ですね。ガッチャン銀、ガッチャ銀……ガッチャマン……うーん、調子が悪いですね。あ、こっちの話です。
△3一玉は順位戦の変化でもあったのでそこまで驚きはなかったですけど、こちらは本当にびっくりしました。もし金が4七にいれば、これは普通にあり得るのです。
先述の順位戦でもそうでしたし、探せば類型はたくさんあると思います。
しかし▲5八金型では、△5五銀とかわした手が△4六銀と△6五歩の両狙いになり、また▲2五桂の後に△3七角と打たれる隙が生じています。
勝てば竜王の大勝負で、常識では有り得ない一手。
だけど、あの人はずっとそうやって来たのですよね。三十年以上に渡りずっと。
いつまでも尽きない将棋への探究心こそが、羽生棋聖の一番の強さの秘密なのかもしれませんね。

 

△5五銀 ▲2五桂 △4二銀 ▲1五歩 △3七角▲2九飛 △4六角成 ▲4九飛 △1五歩 ▲4六飛△同 銀▲3四銀

f:id:yaminomabot:20171209141138j:plain


封じ手は▲4六飛でしたが▲3四銀までは必然ですね。
技術的には△3七角に▲2九飛~▲4九飛があったのが大きかったでしょうか。常に▲1八飛を強いられていれば攻めの継続は困難だったでしょう。そのあたりが渡辺竜王にとって誤算だったのかもしれません。
本譜の手順は▲5八金の隙を突いて打たれた角を威張らせることなく盤上から消し去ることに成功しています。
さらには△4六銀と飛車を取った銀の位置は中途半端で、先手は次に▲4五角の狙いがあります。
前日の夕方は事務所のみんなも封じ手までの形勢について話をしていたのですけど、大体は先手有利、何人かが難解といった判断で、後手が指せると言った人は誰もいませんでした。
一日目が終わった時点でここまではっきりするのは珍しいですけど、最近は二日制であってもそういう将棋が増えてきたでしょうか。
歴史的な一日になるかもしれない。
みんなも、そう感じていたと思います。やっぱり雰囲気が違っていましたから。高揚感がありながら、だけどどこかふわふわしたような、地に足がつかない気分です。
だけどそれをはっきり口にする人はいませんでした。精々落ち着かない、と言うくらいだったでしょうか。
将棋は最後の最後まで分からないものですので。
直近でいえば、王座戦第1局みたいな大逆転の将棋もありましたしね。
でも何より念頭にあったのは、第21期竜王戦の第四局でしょう。

f:id:yaminomabot:20171209150252j:plain

当時の羽生名人は渡辺竜王をぎりぎりまで追い詰めながら、余りにも劇的な打ち歩詰めによって逃れられ逆転負け。その後は史上初の三連勝四連敗で、勝利も、タイトルも、永世竜王の資格も手のひらからこぼれ落ちました。
冷静に見て、こんなのは二度とやれるような芸当ではないというのはもっともなのですけど、それでも一度はやってのけているのも事実です。考えられないような逆転劇も、決して不可能ではないことを他でもない渡辺竜王自身が証明しています。
……とはいっても、実際の形勢は形勢ですからね。特に角換わりは一度筋に入ってしまうとどうにもならなくなってしまう戦型ですけど、この将棋も既にそうなっているように見えるわけです。
だからでしょうか。事務所では皆が一つの可能性を思い浮かべながら、それでいて誰もその理由には触れない、だけど何だかそわそわ落ち着かない……というおかしな雰囲気でした。
今思うと笑っちゃいますね。
私達が口にしたって何も変わらないはずなんですけど。
でもやっぱり私はそんな皆さんが好きです。
口にすると逃げてしまうような気がしたのもなくはないのでしょうけど、それ以上に、敬意を払っているのではないでしょうか。何に? 何でしょうね。だけど私はそう思うんです。
あの日は私自身に特別なことは何も起こっていない、いつも通りの一日でした。だけど、忘れられない一日になりました。

△8六歩 ▲同 銀 △5七銀成 ▲同 金 △5九飛▲8八玉 △5七飛成 ▲6八銀 △4八龍 ▲5七角

f:id:yaminomabot:20171209153504j:plain

▲6八銀~▲5七角は羽生棋聖らしい指し回しですね。先手は玉を固めながら攻めを見せ、後手は端が受かりません。
明らかに単純な足し算で受からないので、このあたりは誰が指しても同じになってしまいます。
こういうのは将棋においてもっともつらい展開の一つでしょうか。誰が指しても変わらないような必然手しか盤上に存在せず、指し進めるうちに差が広がり次第に逆転の目がなくなっていく。
例えばソフトの評価値が1000点の差があっても、一手の違いで全てがひっくり返るような際どい1000点差があれば、本当に可能性の乏しい1000点差がありまして、この将棋ははっきり後者です。
渡辺竜王の状態が悪いのも事実でしょうね。渡辺竜王竜王戦で後手角換わりで発揮する作戦の精度は格別のものがありましたけど、今は影を潜めていると言わざるを得ません。
ここ数年であった、今も起こり続けている定跡の大変動の煽りはあるでしょう。
いえ、定跡が五年ほど前にあった形のままに進歩していれば、ここまで苦戦することはなかったのかもしれません。
かつては固めてから攻めるのが必勝法で、固さこそ正義でしたけど、今は隙あれば急戦です。将棋の質そのものが変わってしまいました。
かつての環境でもっとも強い種であったからこそ、変化に適応するのが難しいというのは皮肉めいていますけど、そういうものなのでしょうか。
とはいえ時代がどう変わろうと称えられるべきは一方的に、より万全に近い状態で対局席に着いた人の方です。はい、自戒を込めてそう思います。
だから羽生棋聖が9年前と同じく、あるいは28年前と同じく、挑戦者になりえたというのは、言葉に出来ないくらい凄いことです。
記録のこともありますけど、防衛ではなく、新たに挑戦者となってタイトルを奪取したという事実は今感じているよりずっと大きなことなのかもしれません。

 


△4九龍▲1二歩 △同 香 ▲1三歩 △同 香 ▲同桂成 △同 桂▲同角成 △2二金打 ▲1五香 △1三金 ▲6七角

f:id:yaminomabot:20171209161849j:plain


最近は羽生棋聖のつらい姿を見ることも多いですね。
王位王座と立て続けに失い、特に王座戦第一局は、もしかしたら失冠した時以上にショックが強かったように思います。
延々と続く一分将棋、そして指し手がまだ残っている中での投了。
「172手目に金を打とうとしていました」
あの日の夜でしたか、電話で話した幸子ちゃんがそう言っていました。少し声が震えていたように感じました。
あえて図面はあげませんけど、あれはおそらく△4五金と打とうとしていて、それは二マス横にある先手の飛車の利きを見落としていたことを意味します。そこではすぐに気づいて違う手を指しましたが、ああいう終局になるのも無理はない状態でしたね。
……対局の後は二キロ痩せるといいます。生理的な原理はともかくそれだけ神経をすり減らしながら指しているという意味で、言葉では理解していたつもりではあったのですけど、本当にそれがどれほどのものなのか、きっと私は何も分かっていなかったですね。

僅かに震えながら▲6七角。▲1三香成は△5六角があり、▲6七角△同角成▲同銀となったとしても先手の有利は変わりませんが、銀を立った形は囲いとしててやや弱体化するため、それさえも嫌ったのでしょう。慎重かつ丁寧な指し回しです。
運命の瞬間が近づいてきました。

△1九龍▲1三香成 △4一玉 ▲4四歩 △9四桂 ▲2三成香 △同 金▲4三歩成 △8六桂 ▲同 歩 △6九角 ▲8四香 △同 飛▲4二と △同 玉 ▲4三銀打まで87手で先手の勝ち

f:id:yaminomabot:20171209184040j:plain

f:id:yaminomabot:20171209184047j:plain

▲8四香が永世七冠を決定づける美しい決め手でした。
取っては詰み。そして香打ち自体が▲4二と△同玉▲4三銀打△5一玉▲6三桂△6一玉▲7一金△同飛▲同桂成△同玉▲8一飛△7二玉▲8二香成△6三玉▲5五桂までの詰めろになっていています。
以下渡辺竜王は△同飛から即詰みを選び、88手で投了。羽生棋聖はついに竜王奪還、および竜王在位通算7期により永世竜王の資格を獲得、並びに永世七冠の達成となりました。

こうしてつらつらと書き並べると、何だか夢みたいに見えてしまいますね。
成し遂げたことの非現実さもありますけど、それ以上に、この最後の一冠を手にするまでに歩んだ道の険しさが心にかかっているからでしょうか。
竜王は15年ぶりですから、蘭子ちゃんも幸子ちゃんもまだ生まれていないのですね。
これだけは無理かもしれないと思ったことはあったでしょうか。
今の私は、羽生善治という人にかつてほど幻想的な無謬性を信じてはいません。私達と同じように、楽しみながら、時には悩み苦しみ神経をすり減らしながら、戦っているのだと理解しています。だけど、だからこそ将棋を指すことで人に勇気を与えられるのかもしれませんね。
おめでとうございます。月並みですけど、これ以上の言葉が浮かびません。
そして、ありがとうございます。羽生善治という棋士と同じ時代を生きていることが、私はとても光栄です。



高垣楓