一ノ瀬志希『While He's Still Silent』第41期棋王戦第3局佐藤天-渡辺
ベルガモットのパルファム。
狭い室内に漂う。
カーテンに遮断されたままの個室。
日光で分解されちゃうから。
アップルティーの甘ったるい匂いと、混じり合って、溶ける。
深く、深く。
流転する臭気。
鼻腔に届けば、中枢神経を刺激する。
既知の香り。帰れる刺激。
逃げ出したくなるくらい、よく知ってる。
フレちゃんは私に問う。
「志希にゃんってさー。
「そうだよ~」
正常な心音で答える。
「どうして?どうして?」
「なんでだろう?飽きたからかな~♪んふふ~、エクスタシー!
不感症。
怖いものってある?私はあるよ。
慣れれば刺激は鈍くなる。
鈍くなって薄くなって何も感じなくなれば、私は貌を失う。
逃げなければ。
空白地点から眺めれば、単調な刺激でまた信号が通る。
そんな気がするから。
「それじゃあさ、もしも……」
フレちゃんはなおも問う。
興味?好奇心?
気まぐれ。
フレちゃんは封をされたままの小瓶をいじる。
それは開けちゃ駄目。
嗅いだらトリップして。戻れなくなるの。
「アイドルにも飽きちゃったら、どうする?」
★
第41期棋王戦五番勝負 第3局
持ち時間:各4時間
先手:佐藤天彦八段
後手:渡辺明棋王
▲2六歩 △3四歩 ▲7六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5二飛▲4八銀 △5五歩 ▲6八玉 △3三角 ▲3六歩 △4二銀▲3七銀 △5三銀 ▲4六銀 △4四銀
「わーお☆ゴキゲン中飛車?」
「ゴキゲン中飛車対超速~♪」
「意外!号外!奇想天外!」
「銀の宅急便だね~」
宮本フレデリカと一ノ瀬志希は顔を見合わせて言い合う。
互いに互いの話を聞いているのかいないのか。
速水奏は内心……
三月六日、日曜日。たまたま志希、フレデリカ、
言い出したのはフレデリカで、『将棋界の一番長い日』以来、
しかし、この組み合わせはどうなのだろう、
志希とフレデリカが会話を始めると、
自分のペースを保ったままこの二人に合わせられるのは塩見周子く
奏は最近、対処法を覚えてきた。いちいち相手にしないこと、
城ヶ崎美嘉はまだ耐性が出来ていなくて、
「
「私も私も~♪それじゃあ、私、アーニャちゃんやるね!
「わーお☆それじゃあ私奈緒ちゃん!ツンデレ!」
妙なやる気を見せる二人に、奏は断固として首を横に振る。
「あなたたちが座談会なんてしたら、収集がつかないわよ。
「すごーい!奏ちゃんやり手!古本っぽい香水貸したげようか~?
「いいから……」
棋王戦第三局、渡辺棋王の作戦は意表の振り飛車だった。
渡辺棋王と言えば純粋居飛車党のイメージが強く、
ただし、それはあくまで数字の上の話だ。
羽生名人との王将戦最終局、三浦九段との棋王戦第二局……
かつて力戦中飛車といわれたゴキゲン中飛車だが、
▲7八玉 △6二玉▲5八金右 △7二玉 ▲6六歩 △8二玉 ▲6七金 △9二香▲7七角 △9一玉 ▲8八玉 △8二銀 ▲9八香 △7一金▲8六角 △9四歩 ▲9六歩 △6二飛 ▲9九玉 △6四歩▲8八銀
戦型は相穴熊になった、▲5八金右 ~▲6六歩のところで▲6八銀 ~▲7七銀としていれば、逆に急戦調になっていただろう。
「志希にゃん解説委員、
フレデリカがインタビューをするアナウンサーのような身振りで志
「んん~、▲8六角が気になるかナ?」
「ほおー、▲8六角~。
「△6四歩を牽制してるんだよ~」
「わーお☆そのまんま!」
「香水もね~。完成に近づくほど微調整が増えていくの~」
ゴキゲン中飛車対居飛車の戦いが進むにつれ、
そしてその中でもゴキゲン側の砦となっているのがこの銀対抗だ。
▲8六角や端歩の突き合いは本当に細かい工夫だが、
「飽きとの戦い。……ばたり」
「あーん!志希にゃんが死んじゃったー!」
だからこそ、実戦例も減っているのかもしれない。
それにしても、
無言でパソコンに文章を打ち込みつつ、奏はそんなことを思う。
△5一金 ▲7九金 △6一金左 ▲7七金 △4二角▲1六歩 △8四歩 ▲7八金引 △7二金左 ▲3七桂 △8五歩▲7七角 △7四歩 ▲4五銀 △5三銀 ▲5六歩△4四歩▲3四銀 △5六歩 ▲4三銀不成△5七歩成 ▲5四歩
前述の通り、
それはいいのだが、全ての窓が遮光カーテンに閉ざされており、
現在志希が調合中の香水だか薬品だかが、
奏としては出来るならカーテンを開けても可能な作業をやって欲し
この将棋は渡辺棋王と佐藤八段の組み合わせにしては、
奏は画面から目を離して、ちらりと志希を見る。
怪しげな薬品作りに没頭しているようだ。
志希と奏は以前は先日ユニットを組んだばかりの仲だ。
それより前にはあまり交友はなかったが、
「ねえ志希」
「ん~?」
「局面進んだけど?」
「ほほう、どれどれ」
昼休憩後、戦いが始まってから指し手は少しずつ速くなっていた。
現局面はお互いの主張がぶつかり合った勝負所だろう。
「先手カナ?少~しリードって感じ♪」
中央の折衝でポイントを上げたのは先手の方だったということだろ
後手の△8五歩と開いた穴熊は固さにおいて先手に劣る。
角を追うために必要な手順ではあるのだが、
「でも、後手も5七にと金を作ってるわよ。それも急所でしょう?
「そ、だから少~しだけリード。万有引力が働かなくなるくらい」
「どれくらいよそれ……」
「んふ~♪キスする前の唇と唇の間くらいかな~」
ともかく、微差だということだろう。
一ノ瀬志希はギフテッドというものらしい。
『gifted』……神から与えられた資質だ。
志希は生まれながらにして平均より高い学習能力を持っている。
人間離れした鋭い嗅覚を持つのも、
天才、と言ってしまうのは多少ざっくばらんな嫌いがある。と、
例えば海外の大学に飛び級で進学し、また中退しても、
一方でやたらと飽きっぽく、
奏と志希は感覚器官の性能からしてまるで違うのだ。
だからおそらく、
△3五歩▲6五歩 △3六歩 ▲5三歩成 △同 角 ▲5四銀成 △5二歩▲4五桂 △同 歩 ▲6四歩
佐藤八段が▲6四歩と突いた局面。
これまで緩い調子で画面を見ていた志希の様子が一変した。
「▲1一角成 △3七歩成 ▲2九飛 △6五歩 ▲2一馬 △6六桂▲7七金△3八と ▲5九飛……」
画面を食い入るように見つめながらぶつぶつと符号を呟いている。
「▲1一角成 △3七歩成 ▲6四歩 △2八と ▲6三銀 △6七歩▲6二銀成 △同 角 ▲6三歩成 △6八歩成 ▲7二と △同 金▲6三金 △7九と ▲同 金 △7一金打 ▲7二金 △同 金▲6四歩……」
早口で聞き取りづらい。
どうやら▲1一角成が起点になっているらしい。
「ねぇ、何よあれ?」
対処の仕方が分からない奏は、フレデリカに尋ねる。
「んー、▲
「なるほど」
▲1一角成は香を拾っている間に△3七歩成を許すことなるので、
しかし、△
相穴熊戦において守り駒を剥がすのは大駒を取るよりも価値がある
志希の考えているらしい順も、
それにしても、何をきっかけにスイッチが入るのか分からないな、
△同 飛 ▲5三成銀 △同 歩▲5五角 △6三歩 ▲6四角 △同 歩 ▲3一飛 △3七歩成▲2一飛成 △8三銀打
渡辺棋王が△8三銀打と指した瞬間のことだ。
それまでずっと奇怪な変化手順を呟き続けていた志希が、
「にゃーん」
そして、そのまま椅子に座ったまま真後ろに崩れ落ちて、
「ちょっと志希!?」
「志希にゃん大丈夫!?」
フレデリカと奏は慌てて駆け寄ったが、
「これ、またトリップしてるの?」
「んー、どうだろ?」
安易に触れるのも躊躇われて、
「はふー、ただいま」
「ただいまじゃないわよ。何やってるの。頭打ってない?」
「奏ちゃんの香りで帰って来れたよ~。ありがとー!」
志希はのそりと立ち上がった。
そしてまたPC画面を見る。
「後手は渡辺棋王だよね~?」
「そうだよ」
「本当に人間なの?将棋のモンスターか何かじゃなーい?」
「わーお☆いきなりとんでもないこと言うね!」
「そっかー。いやー、組み立てがさ。
志希は肩を竦めると、
「この△8三銀で、後手の勝ちなんだね」
▲2九飛 △5六角 ▲6三歩 △6七と▲同 金 △同角成 ▲4三角 △6六桂 ▲6二歩成 △同金上▲6九飛 △5七馬 ▲6七銀 △8六歩
数手進むと、志希がああ言った理由がはっきりしてきた。
後手は難攻不落の四枚銀冠穴熊。見ているだけで、
しかも、先に駒を剥がされ始めたのは先手の方である。
後手の穴熊に睨みを利かせているのは龍が一枚のみ。
▲4三角は非勢を認めて粘りに行った手だろう。
相穴熊は双方が似たような陣形で、
故に、一度差がつくとその差を取り戻すのは困難極まる。
これはもう、渡辺棋王が勝ちになった将棋だろう。
渡辺棋王は残り三十分のうち二十五分を使って△8六歩。
決めに行った手だ。
志希は、もう盤面を見ていなかった。
彼女の中でもう勝負はついてしまっていて、
「…………」
奏はしばし無言で、薬品を調合している志希を見つめてから、
「私、もう帰らないといけないわ」
「えっ、そーなの。今日はずっといると思ってた!」
フレデリカが驚いたように言う。
確かに、と奏は心の中で頷く。
私もそう思っていたけど、と。
「だから志希、△8六歩から続きはあなたが書いてよ」
「えっ、私?」
「私が朝から夕方まで書き続けてきたのよ。
「ん~?まあ、いいけど……」
そこまで気乗りしない様子ながら、志希は頷いた。
「それじゃあフレデリカ。志希のこと、ちゃんと見張っといてね」
「わかったよー!フレデリカにお任せ!」
グッ!とサムズアップするフレデリカ。
「でも、どうして?」
どうして、か。
難しい問いだ。わざとぼかして解答を難しくしているのか、
「文香さんの観戦記を読んだから、かしら?」
そう微笑んでから、奏はPC画面の一点を見る。
▲佐藤天彦八段。
★
▲6六銀 △7九馬▲同 飛 △8七歩成 ▲同 銀 △8六歩 ▲同 銀 △8七歩▲8八歩 △6八金 ▲7七飛 △7八金打 ▲8七飛 △7九金左▲9七香 △8九金寄 ▲9八玉
「文章ってどうやって書くの?メールやラインじゃなくって、
フレちゃんの質問一号。
お答えしましょう。
でもどうだろう。
思うがままに書けばいいと言われたから思うがままに書いたら読め
おお。私、文章下手だな!
「言語中枢から単語を引っ張り出せばいいんだよ~。
「脳パワーだねー!
「クローン人間は倫理的に難しいねえ」
奏ちゃんが帰って、部屋の香りが一つ減る。
残香が薄れる。
ミステリアスで奏ちゃんらしい?
だけど。
ここから私は何を書く?
「局面は後手がいいんだよね?さっすがきりゅーおー!」
「ほとんど勝勢だよん。もうすぐ終わるんじゃないかな~」
「あっ、天彦さんが……」
「投了した?」
スッ、と。指を滑らせて。
▲9八玉
「あれ?」
生きてる?
いや、生きてない。
でも死んでない。
「あれれ?」
△4七と ▲6三歩 △同金直▲5五桂 △8五歩 ▲同 銀 △7三金寄 ▲7五歩 △8四歩▲7六銀 △9五歩 ▲同 歩 △8五桂 ▲同 銀 △同 歩▲6七角 △8八金引 ▲同 飛 △同 金 ▲同 玉 △8六飛▲8七金 △6六飛 ▲7七金打
△8四歩▲7六銀は息苦しい。
水面から出られない。出ようとしてない。ただ、耐えてる。
どうして?
勝ち目なんてないのでは?
それならキレて突撃……も、しないで。
じっと銀を引いた。
なんで?
△8六飛は王手銀。
銀をまるっと食べられて、相手は四枚銀冠穴熊。
これは決め手、決着。
もう手段なんてない。
これで投了?
▲8七金 △6六飛 ▲7七金打
何だろうこれ?
シナプスが接続してない神経に、信号が繋がらないでいる。
△3六飛 ▲8四歩 △同 金▲7六桂 △5七と ▲4五角 △3八飛成 ▲7八桂 △4九龍▲6九歩
気がついたら、黙って盤面に見入っていた。
敗北への拒絶?
違う。そんなものすぐに首を刈られて終わる。
勝利への追求?
違う。そんな甘い状況ではない。
分からない。
分からないけど、指し手は進んでいって、
何が、そうさせるの?
「志希にゃんってさー。
フレちゃんが急に聞いてきた。
脈絡ないよ。
私もか。
「そうだよ~」
「どうして?どうして?」
「なんでだろう?飽きたからかな~♪んふふ~、エクスタシー!
あまりに深く眠ってしまうと、起きれなくなる。
「それじゃあさ、もしも……アイドルにも飽きちゃったら、
「アイドルにも?」
どうだろう?
「逃げちゃうかな」
次はどこに逃げるんだろう?
今、アイドルをやってる私は楽しくて、毎日がエクスタシー。
だけど、いつか、不意に興味を失って、
そうなった私は、何にも無い。
空っぽな存在に。
なってたり、する?
「怖いこと聞くね~」
「怖かった?」
「うん。凄く」
「ごめんね」
「いいよ」
△4五龍 ▲8四桂 △6八と ▲同 歩 △4九龍▲8九歩 △9六歩 ▲同 香 △7九角 ▲9八玉 △8四銀▲6三桂成 △4三龍 ▲7二成桂 △9七歩 ▲同 金 △5四角
△5四角。
金合いしかない。
でなければ詰む。
決まった。今度こそ、はっきりと間違いなく。
162手目。
カーテンの隙間から漏れる光もない。
どれだけの時間が経った?
私がこの将棋を見放してから。
佐藤八段は決して『負けました』と言わない。
黙って、時間に、局面に追い詰められながら、指し続けている。
「先手が逆転した局面はあったのかな?」
「ん~、ないよ。一度もない」
「わーお☆渡辺棋王、ヤっバいねー!」
佐藤八段は負けの将棋を怪しく粘り続けて、
何だろうこれは。
どうしてここまで?
飽かないの?
集中力が途切れないの?
もう、これでいいだろうって、思わないの?
「志希にゃんはね。アイドルに飽きたりしないと思うよ」
フレちゃんが言った。
「そーお?」
「もし飽きて失踪しても、あたしとか奏ちゃんとか、
適当な調子が、妙に突き刺さって、痛いような。
その痛みの刺激を求めていたいような。
「どうしてそう思うの?」
「だって、何も読まなくても、この将棋をずーっと見てたから」
「ああ……」
すとん、と。
私の中に何かが嵌まった。
そうかな?
それなら、私は空っぽにはならないのかな。
そうだといいな。
私もいつか。
この二人みたいに。
「負けました」
佐藤八段が沈黙を破った。
終局。盤上世界の終焉。
「お疲れ様でした!」
フレちゃんがパソコン画面に向かってお辞儀する。
私もそれに倣って、深く、頭を下げた。
▲8七金打 △7二角 ▲7一金 △8三銀打 ▲7二金 △同 銀▲1一龍 △6五桂まで170手で後手渡辺棋王の勝ち
【一ノ瀬志希と速水奏】
*不注意で一度、記事を削除してしまいました…。星つけ、ブックマークしてくれた皆様、本当にごめんなさい……(蘭子)