鷺沢文香 『夜窓のむこうに』(第74期順位戦A級6回戦 深浦康市-佐藤天彦)
冬が苦手だ、と母に言ったら妙な顔をされたことがある。
どうせあなたなんて年中室内で本を読んでいるのだから、暑いも寒いも関係ないでしょう? ……というのはもっともなことかもしれないけど、本の虫だって外出する時はあるし、寒気に晒されれば身が凍りもするのだから、思えば随分横暴な物言いだった。とはいえ、私自身はあまり寒さを苦にはしないのも事実ではある。
では何が苦手なのかというと、私はどうもこの季節になると、冬に置いて行かれるような……置き去りにされるような気がして落ち着かなくなるのだ。
分かりづらいだろうか。
気温が次第に落ちていくのと一緒に、時間の流れも少しずつ早くなる。
ジングルベルの鐘の音は道行く人を急き立てる。そのクリスマスが終わればあっという間にお正月、と息つく間もない。
十二月は師走というけど、これは本当に的を射た表現だと思う。
問題があるとするなら一つだけ。
師走になっても、私は走れない。
他の十一ヶ月と同じように、静かに本を読んでいる。それだけだ。
徒競走中のカメでも、少しは歩みを進めていただろうに、私は本を抱えてずっとその場に留まっている。
冬は、周囲の全てが余りにもざわついて慌ただしいので、留まっているなりにも急かされているような気分になる。
そうして私は冬に置いて行かれてそうで、気が気でなくなってしまうのだ。
だから、私は冬が苦手なのだ。
それなのに、今年は不思議とそんな気分にはならなかったのは何故だろう。
346プロにいるから……なのだろうか。しかし、アイドルの皆は街角の人々とは比べものにならないくらい元気で賑やかで、季節の祭り事の度に大騒ぎをする。どう考えてもこちらの方が時間の流れは早く感じる。
それでも私がここで穏やかな気持ちでいられるのは、346プロの皆がマイペースな私を置いていかずに、騒がしい中でも私と同じ時間を共有してくれているから……なのかもしれない。少なくとも今まで、そんな空間は他のどこにもなかった。
それと、もしくは私自身がアイドルとして前に進んでいるから……カメくらいの速度でいいので前に向かっているからだというのも理由の一つなら、それはとてもありがたいことだ。
その日、仕事を終えた私が事務所に立ち寄ると、すぐに可愛らしい女の子達が何やら楽しげに語らう声が聞こえてきた。
覗いてみるとどうやら二人だけのようだ。いつもならもっと多くのアイドルやアイドル候補生がいるのだけど、今日は少ない。夕方でも平日はこんなものだろうか。
「あっ、ふーみん! お疲れー!」
「お疲れ様、未央さん」
真っ先に私をおかしなあだ名で呼ぶのは本田未央さん。続いてテーブルの上に置かれたタブレットを見つめていた橘ありすちゃんがぴょこりと顔を上げる。
特徴は違うけれど、どちらも眩しいくらい元気で可愛い。私も彼女たちと同じアイドルなのだと思うと、何だか面映ゆいくらいだ。
「文香さん、お疲れ様です」
「ふふ、ありすちゃんもお疲れ様……あ、橘さんだったかしら……」
ありすちゃん、と言ってしまってから思い出す。そういえばありすちゃんは以前、フレデリカさんに名前で呼ばれてとても怒っていたのだ。
「……いえ、ありすでもいいです」
「そうですか。よかったです」
「そ、そんなことよりこっちを見ましょう!」
ありすちゃんは早口でそう言って、またタブレットに視線を戻した。
そういえば私が来たときも二人でこれを覗き込んでいた。
「その……何を見ているのですか?」
「将棋だよ!将棋!なんと今日は、A級順位戦なのであ~る!」
「ああ……」
最近、プロダクション内で将棋が大流行している。アイドルの一人が将棋のツイッターやブログを始めたのをきっかけに、他のアイドル達も続々と将棋に興味を持ちだした。
「今日の対局者は?」
「深浦康市九段と佐藤天彦八段です。深浦九段はここまでリーグ戦績を1勝4敗、佐藤八段は5戦全勝でここまで来ています。深浦九段は残留のために、佐藤八段は名人挑戦のために絶対負けられない対局です」
ありすちゃんが補足まで含めて丁寧に説明してくれた。
なるほど、と思いつつ私はタブレットの画面を覗き込む。
「えっと……」
中盤もたけなわといったところだろうか。多少の心得があるとはいえ、プロでも何でもない私が現局面をぱっと見ても、何が何やら分からない。
角換わりのような気がするけど、でも何か違和感があるような。
ぼんやりと局面を眺めている私を未央さんがちらりと横目で見て言った。
「ね、ありすちゃん。ふーみんも来たことだしさ、初手から振り返ってみようよ」
「橘です」
「えっ?」
「えっ?」
きょとんと見つめ合う未央さんとありすちゃん。
あのー、ちょっと……?
「……コホン、初手に戻します」
未央さんが妙な顔で首を傾げているのからぷいと目を逸らして、ありすちゃんは慣れた手つきでタブレットを操作する。
先手:深浦
後手:佐藤天
▲2六歩 △3四歩 ▲2五歩△3三角
「あら……」
三手目で早くも私は意表を突かれた。
▲2五歩は比較的珍しい手で、実戦例は多くない。先手は早めに形を決めて損をしている意味があるのだ。実際勝率も悪い。
しかし、それをあえて採用したということは……。
「横歩封じでしょう」
ありすちゃんが3四の歩を指先で突きながら言った。未央さんもそれに同調するように頷く。
そうか、さっき角換わりの局面を見た時に少し違和感を覚えたのはそういう理由か。本来なら佐藤さんは横歩取りを志向するはずだったのだが、三手目▲2五歩で他の戦型を選ぶことを余儀なくされたのだ。
「佐藤先生の横歩取りは、高勝率ですから…」
「だろうねえ。それに三手目の▲2五歩がどこまで損になるか。今の角換わりの先手って、▲2五桂2八角って攻め筋に期待してないからね。もしかしたら大した損にはならないかも……う~ん」
そういう未央さんは悩ましげで、楽しそうだ。
▲7六歩 △2二銀▲4八銀 △8四歩 ▲3三角成 △同 銀 ▲6八銀 △7二銀▲4六歩 △3二金 ▲4七銀 △4二玉 ▲7八金 △1四歩▲1六歩 △6四歩 ▲5八金 △6三銀 ▲5六銀 △5四銀▲6六歩 △3一玉 ▲6九玉 △5二金 ▲7九玉 △7四歩▲9六歩 △7三桂 ▲3六歩 △4四歩 ▲3七桂 △8五歩▲7七銀 △6五歩
局面は正調角換わりに進んでいく。序盤の牽制はあったものの、結局は定跡通りに合流しそうである。
「あれ、この局面……」
私の唇から小さな呟きがもれて、ありすちゃんの手が止まった。
「どうしました?」
この局面、どこかで見覚えが……と考えるまでもなくすぐに思い出した。蘭子さんと飛鳥さんがブログで、まさにこの局面からの将棋について色々書いていたのだ。
その将棋では天彦さんの方が先手を持っていて、そして……そうだ、あるところまでいけば絶対にたどり着く局面がある。
55手目▲5四銀。これで先手は必勝だ。
「だけど、今回後手を持ってるのは天彦さんなんですね……」
「おお、そうだね!」
「それじゃあ今度は……天彦さんが負けるんですか?」
「さあ、どうかなー?」
私にしては珍しく冗談を言ったつもりだったのだけど、はぐらかされてしまった。「ありすちゃん。進めて貰えますか……?」
▲同 歩 △同 桂 ▲6六銀 △3五歩▲2四歩 △同 歩
△同歩。
そうか。
「ここで棋王戦の前例を離れました」
教えてくれるありすちゃんに頷く。そういえば飛鳥さんもここが分岐点だと書いていた気がする。
もっとも、佐藤八段だって自分が作ったばかりの必勝定跡に逆を持って挑んでくわけがない。早い段階で手を変えるのが自然だろう。
「それでここから違う戦いが始まっていくよ」
私は改めて盤面を凝視した。
▲6五銀右 △同 銀 ▲同 銀 △3六歩▲4五桂 △同 歩 ▲3四歩 △同 銀 ▲5五角 △6二飛▲2四飛 △2三銀打 ▲6三歩 △同 飛 ▲7四銀
「それで、この局面まで来たと……」
「後手が長考中です」
ありすちゃんがタブレットを適当にタップするが、局面は動かない。
ここが現在の最終局面なのだ。
「どれくらい……考えているんですか?」
「そろそろ、二時間近くかと」
「そんなに……」
私が事務所に来てから未央さんやありすちゃんとお喋りをしている間、対局者は一つの局面について渾々と考え続けていたのだ。
私も小説なら集中して何時間でも没頭して読めるけど、それは多分に受動的な行為であって、能動的に脳を動かして局面を読むのとは大分違う気がする。
「△6一飛か△6二飛で迷ってるんだと思う。△6一飛の方が無難だけど、△6二飛と引けば金に紐がついて固くなる。その代わり、当たりがきついけどね」
タブレットを見つめる未央さんの目が心なしか鋭い。
「どっちがいいんでしょう……?」
未央さんは答えず、ただ小さく肩を竦めた。
それが簡単に分かるのなら、誰も二時間も長考なんてしない。そんなのもちろん知っている。
それでも馬鹿馬鹿しい質問をしてしまったのは、迷った先に選んだのが外れだったとしても、実はどっちも誤りでしたなんて結末じゃなく、正しい答も確実に存在していて欲しいという、子供じみた願いからだった。
「次に指した時は、もう一つの指し手を選べますからね……」
それとも、世の中は正解のない問いかけで溢れていると知ったのは、私が大人になった証なのだろうか。
パチリ、と駒音がタブレットから響く。
画面には△6二飛が示されていた。
それから数手指して、対局者は夕食休憩に入った。
「それじゃあ、私はそろそろ帰るね」
未央さんのひと言を汐に、私とありすちゃんは夕食を食べに寮の方へ帰ることにした。
食後は自主的にダンスレッスンをしてから、寮にある自室へと戻ってきた。閉じたままの自分の鞄を見て、そういえば今日はまだ本を読んでないな、ということに思い至る。
こう言ってもあまり共感されないかもしれないが、私がこの時間まで本を読まず、あまつさえそのことに気がつかない……というのはなかなか画期的な出来事である。母などが知ればきっと驚くだろう。
「やっぱり、ここは色々なことがあるから、なのかな……」
それも悪いことばかりではないはずだ。
そんなことを思いつつ、鞄の中に入っているであろう文庫本を取り出す。まあ、なんというか、結局どうあっても読みはするのである。
何の文庫本かは私も知らない。何の本か分からないよう、見えないように鞄にいれたのだ。どんな本が出てくるか。朝のちょっとした占いのような気持ちでたまにこんな遊びをする。
今日は開くのが夜になってしまったけど。
鞄の中にあったのは坂口安吾『桜の森の満開の下』だった。
あまりの季節外れに思わず笑みが零れる。
今は真冬で、命を散らすような花びらはどこにも咲いていない。
もっとも、埋まってしまった人の死骸や遺物は、冬もまだ、そこにあるのかもしれないけれど。
将棋や碁をこよなく愛した坂口安吾は、将棋の観戦記もいくつか書いている。
『散る日本』に『将棋の鬼』、それから『勝負師』。
往年の名棋士達の真剣勝負だ。
「順位戦……」
ぽつりとした声が漏れた。
現代の将棋の鬼達の戦いがどうなっているのか、にわかに気になってきた。
▲2九飛 △3八角 ▲6九飛 △同飛成 ▲同 玉 △2九飛▲6八玉 △3三桂打 ▲4四桂 △4二金右 ▲7一飛 △2二玉▲4八金 △7四角成 ▲同飛成 △5九銀▲7七玉 △4八銀不成▲3二桂成 △同 金 ▲2四歩 △同飛成 ▲9一角成 △2九龍▲8五龍 △5七銀不成▲2四歩 △同 龍 ▲5九香 △2七龍▲6七金打 △4六銀不成▲5三香成 △1三玉
共用部屋にはまだ何人かアイドルの娘達が残っていて、先ほどと同様にタブレットで局面を見ていた。さっきと違うのは継ぎ盤が置いてあって、それで検討もできるようになっているところだ。
時刻はもう十時半をまわろうかという頃合いだったらから、もう対局は終わっているのではないかと心配だったけど、どうやら杞憂のようだった。
しかし進んだ局面を見て、私は困惑せずにはいられなかった。
「二つのエクソダス…!」
双方の玉を見つめながら、神崎蘭子さんが言った。ゴシックロリータ風の装束に身を包んだ彼女が、事務所に将棋を流行らせた張本人である。
私も「我がグリモワールに書の女神の持つ魔力を刻むのよ!」言われたことがある。前後の経緯から察するに、おそらくブログに観戦記を書いてくれという意味なのだろうと思う。
読むのはいいけど、書き手に回るのはちょっと……と言って逃げたけど、他のアイドル達は意外とあっさり引き受けている。私も受けるべきなのだろうかと思いつつも、なかなか踏ん切りがつかない。
ところで、蘭子さんが言った「二つのエクソダス」とはどういう意味だろう。
エクソダスとは旧約聖書の『出エジプト記』において、モーセが虐げられたユダヤ人と共にエジプトから脱出するという筋の物語だ。将棋においては入玉ということか。
それが『二つ』ということは……。
私の胸にざわりとした不安が走る。
「もしかして……相入玉の持将棋模様ですか……」
もし持将棋になれば、決着は明朝ということもありうる。流石にそこまでは追いかけきれない。
「それは40%くらいって……あ、ココアを容れたから、みんなどうぞ」
私にココアのカップを与えたのは、高垣楓さんだったから少し驚いた。成人である楓さんはアイドル寮ではなく、都内のマンションの一室に住んでいるはずだ。
私の疑問を察したのか、楓さんはくすりと微笑んで言った。
「今日だけ泊めさせて貰うの。みんなと一緒に順位戦を見たいから」
「そうなんですか……?」
つい返事が疑問系になってしまったけど、別にそれが嘘じゃないかと疑っているわけではない。というか、普通に本当のことだろう。
ただ、楓さんはとても掴みにくい人なのだ。
「あの、ココア……美味しいです……」
「フフ、ありがとう」
おかしな返事をしてしまったのを誤魔化すようにココアに口をつけ、そして盤面を凝視した。
▲1五歩 △同 歩▲1四歩 △同 銀 ▲5二角 △2三金 ▲5四成香 △2四玉
▲4四成香 △2五銀左 ▲3二銀△5五歩 ▲8一龍
「先手の方針が難しいわね」
ここまでの一通りの流れを見てから楓さんが言った。
「秘められし二つの狙い?」
蘭子さんの言葉。これはそのまま受け取って大丈夫だろう。
「うん、後手玉を攻めながら入ろうとしているようです」
「まっすぐ向かったら……駒が足りないのね……」
頷いて、楓さんはココアに口をつける。
「あの、ここから……」
言いかけて、口籠もる。この発言で、何か失敗しそうな気がしたからだ。
失敗のイメージに具体性や根拠があるわけではない。
ただ、何となく不安になる。
それで結局、私は口を噤んでしまうのだ。
だけどこの時、楓さんは何でもないように私の言葉の続きを待っていた。
急かすでもなく追い立てるでもなく、緑色の瞳が穏やかに私を見つめていた。
今度こそ、言おうと思った。
「ここからは、人間の将棋……ですよね……」
△4二金▲2三銀成 △同 銀 ▲6三角成 △3二桂 ▲3三成香 △同 金▲8六玉 △2八龍▲2七桂 △4四銀 ▲7七金上 △3七歩成
終わりの見えない入玉将棋が展開するうちに、深夜0時を回った。
夜が深くなっていくうちに、集まっていたアイドル達も一人また一人と就寝していった。
最後の方まで頑張って局面を見続けていた蘭子さんだったけど、いつの間にかすやすやと寝息を立てている。私と楓さんはこっそりと蘭子さんに毛布を掛けた。
「それで……」
息を潜めるように、楓さんは言った。
「さっきの人間の将棋って、どういう意味だったの?」
「えっと……」
また口籠もる。
私の中では分かっている、はずだ。
将棋には真実を追究していく側面と、何が何でも勝ちを取りに行く側面がある。
どちらも将棋であり、基本的にはそれらが両立した上でプロの対局はなりたっているのだと思う。
だけど、時としてどちらか片方だけが強く表に出てくる場合がある。
そして今、後者の将棋がタブレット盤に映し出されている。
朝から死力を尽くした二人の将棋は、局面が混沌としていくにつれて神のものから人間のものへと変質していく。
完成した定跡とは違った美しさが、確かにそこにある。
きっと私はこんなことを楓さんに伝えたいのだと思う。だけど、口にすることで大事な何かでかき消されてしまうのが怖くて、言えないのだ。
伏した目をそっと上げて、覗き込むように楓さんの顔を見る。
楓さんは、穏やかで涼しげで、何だか全部知ってるような気がした。
「どちらも頑張って……欲しいです……」
結局、私が言ったのはこれだけ。
だけどこれはこれで、紛れもなく私の中の真実だ。
▲2一龍 △2七と ▲1一龍 △1九龍 ▲4八香 △4七香▲同 香 △同銀成 ▲5六桂 △3五玉 ▲4四桂 △同 金▲3三銀 △5九龍 ▲4九香 △同 龍 ▲4四銀不成△同 桂▲5五馬 △4六成銀 ▲4七歩 △8四銀 ▲8五金 △9四桂▲同 金 △8五香 ▲9七玉 △9四歩 ▲1五龍 △4七龍▲3九桂 △8七香成 ▲同 金 △6七龍 ▲3七香 △同 龍▲4七金 △同 龍 ▲同 桂 △3六玉 ▲4六馬 △同 玉▲4八銀 △4二角 ▲5三飛 △同 角 ▲同 馬 △6七飛▲2五龍 △8五桂 ▲8六玉△7五金
△7五金に一瞬、楓さんの目が険しくなった気がした。
「蘭子さん……ちゃんと寝かせましょうか。まだ長引くようなら……」
「ううん、大丈夫。もうすぐ、終わるから」
「そう、ですか……」
「本当はお酒でも飲みながら、一緒に見たかったのよ。文香ちゃんと」
「私と……?」
「そうよー。楽しそうじゃないかしら?」
「そうでしょうか……」
ふわふわとした言葉が私の周囲を漂っている。
嘘は吐いていない。正直に自分の気持ちを言っている。
だけど、掴み所が無い。
そして楓さんはまるで何でも無いように、あたかも前後の文節から当然のように繋がっているような自然な感じで、こう言った。
「私は文香ちゃんが書いた観戦記……読んでみたいわ」
▲同 馬 △同 銀▲同 歩 △7六金 ▲同 金 △8七金 ▲8五玉 △8一香▲8四歩 △同 香 ▲9四玉 △9一香 ▲9三桂 △同 香▲8三玉 △6三飛成
「これはもう……」
大勢は決した。後手は上部に脱出することも、かといって先手玉を寄せきることもできない。朝から深夜まで、私が何度も気を散らして他のことをやっている間も、対局者達はひたすらに将棋のことに考え続けた。
しかし、必ず終わりの時は来る。その時、自分が勝者でいるのか、敗者でいるのか、一体誰に分かるというのだろう。
タブレットに棋譜コメントが表示された。
『佐藤は真っ暗なはずの、窓の外を見上げる。』
私もつられるようにして窓の外を見た。
真っ暗で、何も見えなかった。
「暗い……ですね」
「暗いわね」
程なくして、タブレットからまたぱちりと駒音が響いた。
おそらく、終局したのだろう。
楓さんは黙って継ぎ盤を動かして、ある局面を作った。
「多分、だけど……」
そう言って、楓さんは淡々とした手つきで駒を動かし始めた。
△8七飛成▲同 玉△7七金▲同 桂△同桂成▲同 玉△8五桂▲6六玉△5六金▲6五玉△5五金打▲同 桂△同 金▲7四玉△7三金
「これは、詰み……あったんですね……」
「そうみたい。あの瞬間では分からなかったけど」
「佐藤八段は……暗い窓の外にこれを見ていたんでしょうか。もう、過ぎ去った局面の……」
楓さんは首を振った。
「私達には、分からないわ」
私は、もう一度真っ暗な窓の向こうを見つめた。
「暗い空の向こうに、星はあったんですね……」
「掴めなかったけれどね」
そう、それが現実だ。どんなに頑張ってチャンスが巡ってこようが、それを逃したら、ただ敗北という結果が残るだけ。
残酷かもしれないし、非情かもしれない。
だけど、私はそこまで暗い気持ちにはならなかった。
少なくとも、暗闇でも星がそこにあるのは間違いないのだ。
そこは、それだけは疑わなくていい。
だったら、私達は手を伸ばせばいい。
この手にできるまで。
何度でも。
「掴めます。次は、きっと……!」
この時の私は、何故だか自信たっぷりに、そう答えていた。
何故か。何故だろう。
分からない。
でももしかしたら、この感情かもしれない。
まだ名前のない、生まれたばかりのこの感情を、どこかに残しておきたいと思った。
私はうたた寝を続けている蘭子さんの横顔を見る。すやすやと、無防備な吐息を漏らしている。
「蘭子さんの目が覚めたら、お願いしてみます……」
「へえ、何を?」
「その……私もグリモワールに、新たな一ページを刻ませては貰えないか……って」
「フフ……蘭子ちゃん、きっと喜ぶわ」
▲7三角まで先手深浦九段の勝ち
《鷺沢文香》