鷺沢文香『第30期竜王戦 1組ランキング戦 羽生善治三冠-三浦弘行九段』観戦記

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 二月十三日、午前九時を少し回ったあたりで、私はこうして文章を書いている。
 まだ対局は始まってない。将棋の観戦記に予定稿というのもおかしな話だが、思っていること、感じる気持ちは、時と共に容易く移ろいでしまう。後から振り返ってみると、当時考えたことと、あとで理屈を付け足したこととが渾然としてよく分からなくなっていることがよくある。
 人間の記憶なんてそんなものだし、普段はそれで問題はないのだけど、今日だけは、その時々に感じたことを綴じていきたいと思った。

 

  三浦九段の復帰戦だ。

 多くの人が、色々な思いを持って見ることになる。
 この四ヶ月の三浦九段に起こったこと、今日の対局への思いは筆舌に尽くしがたい。
 一連の経緯についてこの場で多く語るつもりはない。
 何より強調したいのは、三浦九段が無実であったこと。地獄のような苦しみを抜けて、いまだにその渦中にいながら、公式戦に帰ってきたこと。
 全てが元通りには、もうならない。
 残念だけど、それは出来ないし、してはいけない。
 人は間違いを犯す生き物だ。失敗ばかりする中で、やり直したり、再チャレンジしたり、時には誤魔化したりして、そうやって生きている。大抵の場合は。
 それでも、失敗が許されないこと、絶対に判断を誤ってはならないことが世の中にはある。
 私だって他人事ではないのだろう。いつ自分が、どのような立場に立たされるか、誰にも分かりはしない。
 悲しいのは、取り返しのつかないことは既に起こっていて、あとはもう壊れたあとの世界で生きていくしかないことだ。
  時間の針は戻せない。
 しかし三浦九段は帰ってきた。将棋を指すために、生きるために。
 色んな思いが渦巻いている。そしてそれは綺麗な感情ばかりではない。
 でも今、何より強く願うのは、今日の対局が良い将棋になることだ。



第30期竜王戦 1組ランキング戦 羽生善治三冠 vs 三浦弘行九段
先手:羽生善治三冠
後手:三浦弘行九段
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲7七銀 △6二銀▲5六歩 △5二金右 ▲4八銀 △3二銀 ▲2六歩 △5四歩▲5八金右 △5三銀

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 振り駒の結果、羽生三冠の先手となり戦型は矢倉となった。今期の先手矢倉は逆風に晒されていて、先手番にも関わらず惨憺たる勝率となっている。
 以前に幸子さんが、矢倉はアーティファクトだと言っていた。
 本来自然にあるものではなく、人間が歴史を掛けて作ったものであるという意味だ。
 大きな対局に矢倉は似合う、と思う。
 もっとも、後手の作戦はよくある矢倉の持久戦模様とは違っている。
 最近流行の左美濃急戦……でもない。
 △5四歩型の左美濃は今よりずっと昔の昭和の頃、升田大山の時代から指されていたらしい。
 よく分からないので例によって、その都度事務所にいる誰かに尋ねている。いつも誰かしらいるのでとても助かる。
「先手のどんな作戦にも受けて立つというよりは、後手から注文をつけていこうということだと思いますね」
 というのは菜々さんの言。
 菜々さんなどは色んな時代の将棋を知っていて、聞いていてとても勉強になる。
「ブランクもありますし……」
 菜々さんは伏し目がちに言った。
「……やはり、厳しいでしょうか」
 多分、三浦九段の人生の中でここまで将棋と離れたことはこれまでなかっただろう。しかも相手は羽生三冠。万全の状態でも厳しい相手だ。
 誰よりも三浦九段自身がそう感じているだろう。
 だから、菜々さんの次の言葉は少し意外だった。
「いえ、そんなことはないと思います!」
「え……?」
 戸惑う私に菜々さんは慎重に、言葉を選ぶように言った。
「えっと、ブランクは勿論あります。それがいつ、どういう形で現れるのか分かりませんけど……。でも、それで一枚や二枚弱くなったりするわけではないと思うんです。だって……」
 三浦さんが今まで積み上げてきたものは本物ですから、それだけは確かなことですから……と、菜々さんは続けた。
「三浦さんが快勝しても、ナナは驚きませんよ!」

▲2五歩 △4二玉 ▲7九角 △3一玉▲7八金 △7四歩 ▲3六歩 △7三桂 ▲3五歩 △同 歩▲同 角 △6四歩 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △2三歩▲1五角 △1四歩 ▲2六角 △5五歩 ▲6六歩

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 順当に駒組みをしているようで、細かい工夫を重ねている。
 先手は居玉で、後手は△8五歩を保留している。
「3筋が切れているのが焦点だねぇ」
 お昼過ぎ、ふらりと現れた志希さんが言った。
 これの理由は私でも分かる。後手左美濃にとって桂を渡した時に▲3四桂が生じるのが致命傷になりうるということだ。
「色々あったところだよね。端攻めとか」
「えっと……」
 今度は分からない。志希さんの頭の中では繋がっているのだろうけど、私がそれに同じ速さでついていくのはかなり厳しいものがある。
「△1四歩にもう一回▲2四歩を合わせるってこと?」
 美波さんが少し間を置いてから言った。
「そうそう、それも一局だよね」
 志希さんが首肯する。
「えっと、△1四歩のところで本譜は▲2六角と引いたけど、そこでもう一回▲2四歩と合わせるの。△同歩▲同角△2三歩▲6八角で、余計に端を突かせて手損しているようだけど……」

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「ここから▲1六歩と突いて端攻めを狙うということですか……」
「うん。これ自体の成否はともかく、藤井矢倉なんかでもある筋だから覚えといて損はないと思うな」
「なるほど……」
「それで、実際に指されたのは……」
 美波さんがタブレットを覗き込んで進行を確認する。
「▲2六角だね~」
「5筋を狙って牽制してるんだね。3筋まで引くと角が邪魔で後で3筋攻めをしにくくなりそうだし……」
 こちらもあり得る……ということだろうか。
「でも△5五歩だよ。▲2六角を咎めにいってる。否定しにいってる」
 違った。少なくとも三浦九段は有り得ないと言っている。
「んふふ~。鋭い鋭い♪」
「でもこれが取れないんじゃ……」
 パチリ、と駒音がして局面が動いた。
 △6六歩。
「三浦九段が一本取ったんじゃない?」


△5六歩▲6七金左 △6三金 ▲7五歩 △5二飛 ▲7四歩 △8五桂▲7六銀△7七歩 ▲8六歩

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△7八歩成 ▲8五歩 △4四銀▲5三歩 △同 飛 ▲7三歩成 △同 金 ▲3三歩 △同 桂▲3四歩 △4五桂 ▲4六歩 △5七歩成 ▲同 銀 △同桂成▲同金上

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「美波さんも志希さんも後手持ちだったんですねぇ」
 夕食後、私の話を聞いた幸子さんは少し意外そうな顔をした。
「幸子さんも後手持ちだと思ってましたけど……」
 ツイッターでわりと強めに断言していた気がする。
 幸子さんは居心地が悪そうに目をそらした。
「まあ、あれは勢いも込みというか、玉虫色じゃ面白くないですし……」
「なるほど……幸子さんらしいですね……」
「フフーン! 当然です! 詰将棋も作ってますよ! 解いてみます?」
「ええっと、今長いのはなかなか……」
「そうですか? じゃあツイッターに投稿しておくので、後で解いておいて下さい!」
「はあ……」
 解くのは確定事項らしい。これまで私は5手が限界だったが、乃々さんの詰将棋のおかげで17手が最長記録になっている。
 正直詰将棋は苦手なのだけど、アイドルの仲間が作ったものはどうしても解かないといけない気持ちになる。
 おかげで最近は詰将棋も……楽しく……。うーん……。
「レッスン場の皆さんはどのように見ていたでしょうか……?」
 なんだかいたたまれなくなって私は話をそらした。
「あっちは先手持ち後手持ち半々くらいでしたよ? でもあの二人が後手持ちならそうなのかもしれないですねぇ」
 志希さんと美波さんに信用がある……というのもさることながら、思考法がまるで真逆な二人の結論が一致したというのは、二人を知っている人間からすると確かに重みがある。
「▲8六歩のところ……」
 幸子さんが盤面を少し前に戻す。
「後手の方が固いので、先手としては細い攻めを誘発して切らしにいくというのが基本方針だったはずなんですけど、これは攻め合いですね。受けきれないと見たのでしょう」
「この形で攻め合うと……」
「固い方が勝ちますね」
 やはり後手。ブランクなんてまるで感じさせない。
 機敏に動き、先手の指し手を咎めた。
 菜々さんの言うとおり、驚くべき事ではないかもしれない。元々、それだけの実力を持っているのだ。
「ただし3筋の傷を狙われた時だけ速度が変わるかもしれないので、注意は必要です。神経使いますねぇ……」
 たった一手の小さな違いで全く世界が変わってしまうのが将棋というものだ。
「▲3三歩 △同 桂▲3四歩 △4五桂 ▲4六歩は凄いですね。奥深くにいた2一の桂をわざわざ三段飛びさせてますよ」 
「尋常な指し手では勝てないということでしょうか?」
「良いと思ってるのなら▲3四桂なんかで決められるわけですからね。そういうことだと思いますけど、でも……」
 逆接の後、幸子さんは言葉を止めた。だけど、言おうとしていたことは何となく分かった。
 あたりはもう日が暮れてすっかり夜だ。
 棋士なら誰もが骨身に染みて分かっている。
 作戦負けの状態からずっと微差でついてくる羽生三冠を振り切るのは、いつだって大変なことだ。

 

△5八歩 ▲同 玉 △2五銀 ▲5九角 △3四銀▲2六桂 △2五銀 ▲3七桂 △2六銀 ▲同 飛 △3四桂▲2八飛

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「一気にという感じではなくなってきたでしょうか?」
「長期戦……でしょうか……」
 数手前までは決まるか決まらざるかという雰囲気だったが、かなり変わってきている。
「混沌としてきましたね……」
 やっぱり、長くなりそうだ。
「そろそろ寮の方に行っておきましょうか」
 幸子さんが立ち上がる。
 私も幸子さんも寮住みではないが、こうやって中継を長く見てるときは、寮に泊めて貰っていた。最近は少なくなっていたけど。
 寒風が吹く道を、二人で並んで歩く。
 こういうのも、久しぶりだ。
「あの時以来ですね。ほら、名人戦第二局の……」
 言われて思わず頬が熱くなる。
 どう振り返っても、あの時は年長者らしからぬ姿を晒したと思う。
「えっと、あの時は本当に……」
「あの時とは、変わっちゃいましたねぇ……」
 少し寂しそうに、幸子さんは言った。
「将棋は面白いですね。そこだけは何も変わらなくて、きっと価値のあるもので……それで、いいんでしょうかねぇ……」
 まるで独り言のように、幸子さんは呟いた。あるいは、本当に独り言なのかもしれない。少なくとも、隣を歩く私に答を求めているものではなかった。
「あの、幸子さん……」
「なんですか?」
「将棋グリモワール第0局を撮影した時、旅館のシーンの棋譜があったじゃないですか」
「ありましたね」
 私達はあるシーンで、四年前のA級順位戦7回戦の棋譜を借用した。
 対局者は三浦弘行羽生善治。今、盤を挟んでいる二人だ。
「あれは元からの予定で……あの一局を一人でも多くの人にでも知って貰いたくて、選びましたよね……」
「そうですね。ストーリーと噛み合うというのもありましたけど」
「それから、色々あって、あのシーンをどうするかって皆で話し合って……」
「話し合いって程の話し合いじゃなかったですけどね」
 幸子さんが苦笑する。確かにそうだった。
 「どうする?」「そのままでいいんじゃない?」「そうだね」「じゃあそれで」と、たったそれだけのやり取りだった。
 深読みされるほど深い意味合いがあったわけではない。自粛する必要がなかったからしなかった。それだけだ。
「でも、あの対局を選んで良かったと、そう思います……」
「……はい」
 幸子さんは目元をこすってから少しだけ、早歩きになった。


△5六歩 ▲同金直 △3六歩 ▲2五桂 △5五銀▲5七歩 △5六銀 ▲同 歩 △4四歩 ▲5七金

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△5五歩▲6二銀 △5四飛 ▲3三歩 △5六歩 ▲3二歩成 △同 金▲5六金 △同 飛 ▲5七銀 △3七歩成

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 寮に行くと、何人ものアイドル達が固唾を飲んで対局を見守っていた。
 ただの予選一回戦とは思えない、タイトル戦の最終局を見るみたいだ。
 いや、この将棋は、一人の人生を左右するという意味で、きっとタイトル戦の最終局よりも重いものだ。
「皆さんここにいたんですね……」
「こんなに集まって見なくてもいいと思いますけど……」
 そういう幸子さんも私も、こうして寮に来ているのだから他人のことは言えない。
「ふふ、将棋は皆で観た方が楽しいですから」
「えっ」
 学生達に混じって楓さんまでいた。
「何やってるんですか」
「私もあの時、先手を持って並べましたから」
 そうか。第0局で、三浦九段の指し手を並べたのは、他ならぬ楓さんだった。
「形勢はどうでしょう……?」
「先手ですね」
 はっきりと、端的に、楓さんは答えた。
 混沌とした局面で誰よりも力を発揮する。羽生三冠はそういう人だ。
 万全な状態で当たったとしても、勝つのは難しい。
「▲5七金はとても良い手だったと思います。懐が深いですね」
 一手指す毎に、目まぐるしく景色が変わっていく。
 後手の作戦勝ちと思われた将棋は、夜の訪れと共に渾沌としていき、そしてついに絶対王者が抜け出した。
「やっぱり厳しいですか……」
 持ち時間は両者ほとんどない。次第に指し手は加速していく。
 将棋はいつだって面白い。
 だけど私が何よりも惹かれたのは、この時間帯だ。
 お互いの時間がなくなって、何もかもが不足している中で振り絞るように指す一手。
 駒は叫ばないし、血飛沫をあげたりなんかもしない。
 だけど、静かな駒の動きが何よりも雄弁で、言葉よりももっと深いところで語り合っているように見えた。
 三浦九段と羽生三冠は今、きっとそうしている。
「良い将棋ですね」
 楓さんが呟いた。
「とても、良い将棋だと思います」

▲同 角 △5五飛▲3三歩 △同 角 ▲同桂成 △同 金 ▲5六歩 △3五飛▲5三角 △4二金 ▲4五桂

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 決め手と言われた歩頭桂が打たれる。
 取っては飛車を抜かれ、取らねば玉頭に金取りで成り込まれる。
 あまりにもぴったりだと、私でもはっきり分かる。
「これが決め手……なんですか?」
 楓さんも幸子さんも、食い入るように盤面を見つめている。
 そして声を合わせて言った。
「ここからです」

 

△5三金 ▲3三桂成 △4六桂▲同 銀 △3三飛 ▲3四歩 △5七歩 ▲4九玉 △5八角▲3九玉 △3四飛 ▲2三飛成 △2七桂 ▲2八玉 △3六桂▲2七玉 △2八桂成 ▲同 玉 △2七歩 ▲同 龍 △2六歩▲同 龍 △2五金

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 それは最後のお願い、なんて生やさしいものではなかった。
 まるで魂を振り絞るかのような三浦九段の一手一手が、先手玉を追いかけていく。
 羽生玉が頓死の海を泳いでいく、たった一路でも誤れば奈落の底に落ちるような細道を正確に渡っていく。
 これが羽生三冠だ。誰もが知っている羽生善治
 三浦九段が、運命の岐路で不思議と巡り会うと言った人。
 目まぐるしい指し手についていけない私は、はっきりした実感を胸にただ見守っていた。
 三浦九段は帰ってきた。
 三浦九段がそこにいる。
 今、三浦九段の棋譜が指し手が、たくさんの人の心を震わせている。
 ずっと、待っていた。
 お帰りなさい。
 また会いましょう。
 81マスの盤上で、何度でも。

 

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 ▲3三歩 △4二玉 ▲5一銀打まで先手羽生三冠の勝ち。


鷺沢文香