鷺沢文香『将棋界の一番長い日』

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9時30分~【約束の場所へ】

 

 書を捨てよ、町へ出よう……とは言うものの、私は外出するときも書物を持って行く。読む読まないに関わらず、ないと何だか落ち着かない。ライナスの毛布とまではいかないけれど、それに近しいものはあるかもしれない。
 将棋棋士が駒を持ち歩いているという話は聞かない。常に頭の中にあるから必要がないのだろうか。
 朝の十時前、将棋会館に続々と集まってくるA級棋士達の様子を見ながら、そんなことを考えた。
 今日はA級順位戦の最終局。いわゆる『将棋界の一番長い日』である。

 

 ここでまた私が筆を執ることになったのは、我ながら少々意外な思いがする。
 この観戦ブログは将棋に熱中した蘭子さんが個人的に始めたもので、アイドルの仕事とは本来関係がない。しかし、蘭子さんの本業が忙しくなり、なかなかブログを更新する機会が取れなくなったために違うアイドルに更新を頼んだところ、いつの間にか皆が持ち回りで記事を書くようになった。
 私はこれで二度目だ。
 前回は恥ずかしながら私小説のようなものを綴ることになった。今日は土曜日で事務所に出入りするアイドルも多いので、戦型や局面のことなどを尋ねられればと思う。

 さて、始める前にそれぞれの棋士達がおかれる状況を整理しておこう。

△佐藤天(7-1)-▲行方(6-2)
△渡辺(5-3)-▲佐藤康(5-3)
▲屋敷(5-3)-△郷田(2-6)
▲深浦(3-5)-△広瀬(2-6)
△森内(3-5)-▲久保(2-6)

 天彦八段はプレーオフ以上が確定、今日の対局で行方八段が勝てばプレーオフとなる。
 渡辺竜王、康光九段、屋敷九段は既に残留を決めていて、順位の争いだ。
 降級戦線はこれらに比べて少々混み合っている。
 広瀬八段勝ちの場合、広瀬八段は残留し郷田王将は降級。そして森内久保戦の勝った方が残留、負けた方が降級となる。
 広瀬八段が負けの場合、広瀬八段は降級となる。そして郷田王将は負ければ降級となるが勝てば残留し、森内久保戦の勝者が残留、敗者が降級となる。

 名人への挑戦を賭ける者もいれば、敗れれば降級の憂き目に遭う者もいる。また一枚の順位が来季の己の運命を大きく左右するのが順位戦だ。
 そんな悲喜交々がこの一日に集約されるのが、A級順位戦最終局。
 『将棋界の一番長い日』である。

 

10時00分~【対局開始】

 次々と指す者もいれば少考を重ねる者もいる。
 今日の作戦について、もちろん事前に練りに練っているのだろうけど、本当に意思決定するのは盤に向かった時だ。


行方-佐藤天 横歩取り△8四飛

 ちょうど幸子さんが来たのでコメントを貰った。
「フフーン! カワイイボクなら何でも知っていますよ! 先手の6八玉型は右側で戦いが起こったときに戦場から離れているという意味があります。つまり、後手の△2三銀~△2四飛のぶつけを警戒しているんです!」
「では後手が△7四歩としたのはどういう意味があるのでしょう?」
「これは先手の6八玉型に対応した手ですね。右側からは遠いですけど、7筋のあたりがきつくなっていますので!」
「なるほど……勉強になります」
「お安いご用です! カワイイ幸子に任せて下さい!」
 幸子さんの自信に満ちあふれている立ち居振る舞いは私には眩しく映る。そしてそれを裏付けるだけの努力をしているのも間違いない。
 元々の性格によるものも大きいだろうけど。
「それじゃあ、ボクのことカワイイってたくさん書いておいて下さいね!」
 結論。幸子さんはとてもカワイイ。

佐藤康-渡辺 横歩取り△8四飛

「こちらは5八玉型……ですね」
「これの方が実戦例は多いでしょうけど、先手が康光九段ですからね! ありきたりな展開にはならないと思います!」
「6回戦の横歩取りで、飛車を下げずに▲6六歩としたのは……驚きました」
「あれは誰でも驚きますよ」
 ともあれこの将棋はまだあまり進行していない。
 佐藤康九段が新機軸を出すなら、一番進行が遅い将棋になるかもしれない。

屋敷-郷田 矢倉忍者銀

 屋敷九段は忍者銀。他に類を見ないという意味では、こちらも独創的だ。
 左右の銀を次々と繰り出し攻め立てる。
 ロマンに溢れているのは間違いないが、それだけではない。
 ソフトの台頭によって後手の急戦が見直されている昨今、あまりやる人間がいないだけで、先手からの急戦も当然有力なのだと思う。
 気づかないうちに斬られている、ということもあり得るから注意が必要だ。
 事務所内では浜口あやめさんがこの戦法をいつも使って、脇山珠美さんと指している。

深浦-広瀬 矢倉▲3五歩早仕掛け

 後手の急戦策の進化が▲6六歩の一手であった先手の矢倉の駒組みを▲7七銀に散らしている。こちらは矢倉中飛車が気になるという意味があるけど、今のところそれを採用するのは見ない気がする。
 先手の作戦は▲3五歩早仕掛け。▲4六銀3七桂が成立しなくなったため、先手の作戦に非常に幅が出て来た。
 ▲3五歩早仕掛けは温故知新の作戦で、最初に指したのは25年前の郷田王将なのだそうだ。
 25年前というと、私はまだ生まれてもいない。
 同じ人間がそれだけ長い時間将棋を指し続けて、その頃の戦法がまだ有力な手段として存在する。
 これが将棋の深さだろうか。
 卑近なものにしか触れてこなかった私は、あまり遠くに思いを馳せると目眩がしそうになる。 

久保-森内 相振り飛車

 これが一番意外な戦型だろうか?
 とはいえ初手▲5六歩に三間飛車は有力なので、後手の対局者名を見なければむしろ自然な選択かもしれない。
 相振り中飛車は左穴熊という作戦もあるが、今回は……いや、今回も久保九段は玉を右に囲っている。前期の広瀬八段戦ではこの展開から作戦負けを喫している(結果は勝ち)。
 しかし、久保九段の初手▲5六歩からの相振り中飛車は、王将戦で豊島七段と対局していた頃からの命題である。
 これで先手を良く出来れば、先手振り飛車の作戦の幅は大きく広がる。
 久保九段は『将棋界の一番長い日』においても、振り飛車の可能性そのものと戦い続けている。

12時00分~【昼食】

 

 昼食を取るのをうっかり忘れていたら、茜さんにとても怒られた。昔から何かに熱中しているとつい空腹を忘れてしまう。悪い癖だ。
 アイドルには健啖家がいれば食が細い者もいる。
 事務所に入った頃は、アイドルはてっきり食事制限その他厳しいのかと思っていたのだけど、案外そうでもなかった。むしろ智絵里さんのあたりはもっと食べるように言われている。普段のレッスンがアスリートのそれと同じなので、ある程度は口に入れておかないとレッスン中に倒れかねない。
 棋士は対局後に二㎏は痩せるという。
 脳だけでそこまで消費出来るものなのだろうか。ともあれ過酷なのは間違いないだろう。
 茜さんに言われたので棋士達の昼食についても書いてみることにする。
 さて、昼食状況はこうである。

渡辺 肉豆腐定食 みそ汁無し
郷田 味噌煮込みうどん
森内 肉豆腐定食
広瀬 味噌煮込みうどん
天彦 きつねうどん 餅1個追加
行方 なし
久保 なし

 さてと言ったものの、昼食について論評をしてと言われても少し困ってしまう。
 私は(口にしさえすれば)何を食べても美味しいし、等しく幸せを感じる。
 目につくのは渡辺竜王のみそ汁なしと、天彦八段の餅1個追加だろうか。

 肉豆腐定食はあまり耳に馴染みがなかったけれど、写真で見ると美味しそうである。
 渡辺竜王がみそ汁を抜いたのは、肉豆腐も汁物だからなのだろうか。
 私としては和食定食にみそ汁がなかったら少し寂しく思うので、肉豆腐定食のセットとしては森内九段の方を持ちたい。
 天彦八段のきつねうどんに餅追加も気になる。
「一時期夕食にお餅を追加するのが流行ってましたからねー!」
 だそうである。
 餅でゲンがいいみたいな意識があるのだろうか?
「他には、力うどんに餅追加とかですね!!」
「えっ……?」
 棋士の世界は私にはまだまだ未知の世界だ。
 ちなみに私は茜さんと一緒にカレーを食べに行きました。

 

13時00分~【再開】

 

 現状、手数的にはどれも横並びなのでどの対局からピックアップしていくのかなかなか難しい。サイコロを振るわけにもいかないが、何かしら手を付けていかないと夕方以降地獄を見そうである。
 悩んでいるとフレデリカさんがレッスンを終えて事務所に帰ってきた。早速どれから触れていくべきか聞いてみる。
「うーん、久保森内か行方天彦かなあ?」
「それは……どうして、そう思われるのでしょう?」
「まず久保森内の相振り飛車は序盤の駒組みから語ることが色々あるよね」
「それは、そうですね。では行方天彦は?」
「こっちは……」
 フレデリカさんは小首を傾げながらPCに映った盤面を凝視した。
「最初に形勢が動きそうだから……かな?」

 久保-森内

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 フレデリカさんまず相振りの将棋を初手から並べた。
「両方浮き飛車かー。面白いねえ!」
「フレデリカさんはこの戦型には詳しいのですか?」
「いや、全然? そもそも私居飛車党だし! この戦型指したことないよ!」
「そうでしたか……」
 少し困っている私と対照的に、フレデリカさんは楽しそうだ。
「まあまあ。これはほとんど力戦みたいなものだから、定跡知らなくても何とかなるよ。多分!」
 そういうものだろうか。
 最後の△4五桂まで確かめてから、フレデリカさんは言った。
「先手持ち!」
 力強く、断言?
 △4五桂自体は軽いかなと思わないでもなかったけど、どちらかとまで言い切れるものなのだろうか。
「それは……何故でしょう?」
「うーん、何となく?」
 大局観……なのだろうか。
「相振りの中飛車は……不利という説もありますけど」
「そうかな。そうでもないんじゃない? 中飛車も立派なもんだよ!」
「しかし、駒組みは中飛車の方が難しいように思われますが……」
「そうなの? じゃあ不利なんだね!」
「序盤の端歩の意味は……」
「適当だよ! これが活きるかどうかなんてずーっと先にならないと分からないもん。そんなの、この段階で分かるわけないもんね!」
「…………」
 フレデリカさんに掛かればA級も形無しだな、と笑みが漏れる。
「それで、先手持ちというのは?」
 フレデリカさんは大きな瞳をクリクリと瞬かせる。猫みたいだ。
「▲8五桂が嫌だから後手はどこかで△7四金と受けたいけど、その形があんまりよくない気がするんだよね。△4五桂の後は▲4八角△3六歩▲同歩△同飛だよね。この歩交換の間に手が遅れるのが気になるかな?」
「なるほど。▲8五桂は、確かに……気になる筋です。しかし軽いので順位戦の指し方ではないように思えるのですが……」
「じゃあ、互角だね!」
 LiPPSのユニットをやっている時の美嘉さんが、何故か疲れた顔をしていた理由が分かるような気がした。

16時00分~【形勢】

 行方ー天彦

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 この対局は最初に形勢が動きそうだ、とフレデリカさんが言っていた。
「それで、どちらが良くなるのでしょう?」
 私の質問に、フレデリカさんは即座に答えた。
「後手!」
 ドキリ、と心臓が跳ねる。
 この対局は名人挑戦を賭けた大一番だ。先手の行方八段が勝てばプレーオフだが、後手の天彦八段が勝てば名人挑戦が決まる。
 それに……天彦さんが今期A級リーグで唯一黒星を喫した深浦戦。グリモワールにあの観戦記を書いたのは、私だった。
「どうしたの文香ちゃん? 顔が赤いよ?」
「えっ? あ、そ、そんなことは……」
 思わぬところから弾が飛んできた。
「もしかして文香ちゃん……恋してる~?」
「え、えええ?」
「キッスミー♪ チュッチュッチュチューリップ♪」
 焦る私を余所にフレデリカさんは歌っている。
「待って下さい! そんなのじゃありませんから!」
「あ、なんだ。そうなの? せっかく文香ちゃんの恋バナが聞けるかと思ったのに~」
 そう言いつつもどことなくヘラヘラしていて、私の話を信じているか怪しい。
「それで、後手が良いのはどうして……ですか?」
「こっちは単純だよ。後手からは二枚桂の攻めがあるから先手から何か動かないといけないよね。それで、▲2四歩に△3四銀としたんだけど、次どうする?」
「次……次ですか……」
 何か攻めを継続しないといけないとして、どうするだろう。
 角を打つ? ▲6六歩?
 しかし角を打ってもこれと言った攻め筋は見えないような。角を手放すデメリットの方が大きそうだ。
 もしかしてこの局面、もう先手が手段に窮している?
 パチリと音が鳴って棋譜が更新された。
 先手の次の一手は▲5八金。
「おー、辛抱したねえ」
「▲2四歩との流れから考えると……違和感があるように思えます……」
「予定変更かもね~」
 フレデリカさんは、初めて形勢ボードに手を付けた。

   行方┣━┿━╋〇┿━┫天彦

 

17時00分~【急戦】

「ただいま~」というやや疲れた声と共に、神谷奈緒さんが帰ってきた。
 奈緒さんはしばらく合宿に行っていたので顔を合わせるのは久しぶりだ。
「何やってるんだ? って、グリモワールか。お疲れ」
「そういえば……前回更新したのは奈緒さん達でしたね。興味深く拝見させていただきました」
「ああ、大変だったよ。アーニャの奴が変なことばっかり言うからさ……」
「そのようでしたね……」
 アナスタシアさんが他の場所でああいうことを言っているのを見たことがないので、もしかしてあの解説を平然と文字に起こしている加蓮さんと一緒に奈緒さんをからかっていたのではないだろうかと思ったけど、奈緒さんが気を悪くしそうなので黙っておくことにする。秘すれば花なり、と書にもあったことだし。
「しかし対局が多く、困っています。次はどれを見ればいいでしょうか」
「うーん、どれも動き出してきてるからなあ。順番に行くしかないんじゃないか? とりあえず一番動きが大きいのは……屋敷-郷田戦かな?」
「ああ、忍者銀はどうなったでしょう?」

 屋敷-郷田

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 ふんふん、と奈緒さんは鼻歌を歌いつつ棋譜を並べていく。
「まあこれは見るからに後手がいいよな」
 最終手▲4六銀まで確かめてから奈緒さんが言った。
「先手の方が玉が薄く……歩切れも気になるように思います」
「だよな」と頷きつつも奈緒さんは難しい顔をする。
「だけど忍者銀って普通の形勢判断と違う感じがするんだよなあ」
「そうなんですか?」
「大分悪そうに見えて案外差がついてない、ってことはある気がする」
 この局面は明らかに後手が良いと思うが、まだ難しい部分があるということだろうか。
「次の一手も、どれも等しく良さそうで、そうでもないかもしれない。候補手ならいくらでもあげられるけどな。△8六歩△4二金寄△3一玉、△9二角も見えるな」
「次は、郷田王将考えそうですね」
「郷田王将が考え出したら長いぜ? 少なくとも夕食まで挟んで考えそうな気がする。でもまあ、基本的には後手持ちかな」
 順位的にも星取り的にも、郷田王将の残留が最も難しい。まず、勝たなければ話が始まりもしないのである。
 王将戦でも郷田王将は実力をしっかりと発揮し、現在羽生名人と2-2の星取りとなっている。そんな郷田王将が降級の危機に瀕しているのだから、なるほどA級は恐ろしいところだ。

 佐藤-渡辺 

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「▲3一金かー。この組み立ては見えないな」
 奈緒さんが嘆息する。
「確かに……康光九段の指し手はアマチュアから見ても特に理解が難しいように思います」
「基本に例外、みたいな感じだからな。基本を知り尽くしているからこその例外なんだろうけど」
 それでもプロの間でも康光九段の指し手は風変わりなのだそうだから、相当なものだろう。
 逆に渡辺竜王の将棋は王道を地で行くイメージがある。
 この二人の読みはきっと噛み合わないだろう。
「この将棋は1筋の交換がポイントかな。多分、多くの人がここの突き合いは後手の方が得だと考えていると思う」
「それは……何故でしょう? 同じように端を突いているように見えるのですが」
「んー、端を突いてることが活きるのが後手の方が多いから……かな。端歩の突き合いは当然、お互いに端攻めが含みにあるわけだけど、後手の方が飛車の横利きで端攻めをカバーしやすい。だから後手の方が得になる方が多いと考えるわけだけど……」
 奈緒さんはにやりと笑って盤面を見る。
 端を攻めているのは、先手だ。
「面白いよな。将棋って、ほんと」
「そう……ですね」
「やめられないわ」
 もっとも形勢は別だけどな、と奈緒さんは肩を竦める。
「重い攻めと二枚の角。先手のバランスの良さと後手の薄さ。どうでるかな」
「次の一手はどう見ますか?」
「△4四角はとりあえず見えるけど、角角打って大してよくならなかったらおおごとだからな。とりあえず△6二玉で、王の早逃げ八手の得ってやりたい。そんで、形勢はとりあえず……こうだな!」

  康光┣━┿━〇━┿━┫渡辺

 

19時00分~【夜の帳】

 深浦-広瀬

 

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 普通の会社ならそろそろ終業かもしれないが、将棋の本番はこれからである。
 この項でようやくA級最終日全ての対局に触れたことになるわけだが、それでもう日が暮れようとしている。
 こんな調子で大丈夫だろうか? と思うけど、書いているのも私自身なのでどうしようもない。対局者はもっと大変なのだ、と思いつつ蘭子さんがちょっと恨めしい気がしないでもない。
 我ながらとんだ安請け合いをしてしまったものだ。
 さて、▲3五歩早仕掛けから先手が細かく動いて、夕休の時点で局面は上にある図の通りである。
 目につくのは手厚い△6三銀打ちだろうか。
 銀を打ったのは一つの財産をはき出したことになる。ならば次はどこかでそれを取り返しに行かないといけない……と、いうのは先ほどまでいた奈緒さんの言だけど、具体的にはどうするか。
 行方-天彦戦ほど手段に窮している印象はないので、そこまで後手が悪いこともなさそうだけど、数手の対応で流れが変わる可能性は大いにある。
 △7五歩から動くのも自然だが、△5四歩もあるかもしれない。
 完全に長期戦シフトである。
 形勢は互角に近いと思うけど、互角では詰まらないということなので、先手持ちということにしておこう。
 ……私一人だと心細いので早く誰か来て欲しい。

19時30分~【一人だけ】

 手数が進むにつれて、読みははっきりと詰みを見据えたものになるし、着手も一手一手が早くなる。
 読み切れない局面を直感を信じて指さないといけないかもしれない。
 脈のありそうな変化を途中で打ち切らないといけないかもしれない。
 と、書いたところで不意に肩を掴まれて飛び上がりそうになる。
「きゃっ!」
「フフーン!驚き過ぎですよ!カワイイボクが帰ってきたのですから、事務所の外の時点で気づくべきです!」
「そ、それは難しいような……」
「しかし文香さん、一日中そうしていたのですか?」
「え、ええ。まあ……」
 一日中本を読んでいることはよくあるので、そこまでつらくはないけど、PC画面だと少し疲れ方は違う感じがする。
「いけませんね!姿勢が悪いアイドルはカワイくないですよ。ほら、立ち上がって、ストレッチです!」
 促されるままに立ち上がって体を伸ばす。
 心地良い。
 自分で思っていたより身体が凝っていたのかもしれない。
「それで、A級順位戦はどうなってますかね?」
 幸子さんは画面を覗き込んでうんうんと頷く。
「行方-天彦戦は手が止まっているようですね」
「やはり後手が……いいのでしょうか?」
「先手が正念場なのは間違いないですね。ボクは43手目は▲7四歩を予想していますけど、時間を使っているのでかなり捻った手が飛んでくるかもしれません」
 なるほど。ホッとするような緊張するような。
「あっ、指しましたよ!」
 力の入った手つきで、幸子さんの予想通りの▲7四歩。
 この手つきだけで、行方八段が込めて思いの強さが感じられて、私はどちらも応援したくなる。
「ボクの予想した手ですからね。これで良い勝負です!」
 『気持ちの強い方が勝つ』というのはよく聞くけれど、最近私はこれに首を傾げるようになった。勝負事にメンタル面が重要な要素だというのはそうだけど、では敗者は気持ちが弱かったから負けたのだろうか?
 そんなことはない、と思う。
 思いに優劣なんてないはずだ。
 そうでないと、負けたときに何も残らないのは寂しすぎる。
 感傷的過ぎるだろうか。
 はっきりしているのは、将棋は対局者がどんなに強い思いを持って臨んでも、勝つの一人だけだということだ。
 そしてその先にいる名人もまた、一人だけだ。

   行方┣━┿━╋〇┿━┫天彦

 

 20時30分~【胸中】


  忍者銀の形勢判断は難しいと奈緒さんが言っていたけど、幸子さんもしきりに首を傾げている。△7四角が抜群の味かと思ったけど、具体的に読んでみると簡単にはいかないらしい。
「ボクを迷わせるとは、流石忍者屋敷ですね!」
 私から見れば幸子さんのその自信も流石である。私が幸子さんくらいの年齢の頃は書の世界に籠もりきりだった。
 それはそれで得られたものもあったけれど、悔いがないわけではない。
 今からでも幸子さんかありすさんみたいに、素直に世界を見られればと思う。
「あ、まだやってる?」
 声を掛けて来たのは加蓮さんだった。
「昼から見てたんだけど大変そうだね~。私も奈緒とアーニャちゃんの会話を文字に起こしたんだけど、なかなか大変だったよ。笑いでお腹が痛くなって……おっと」
 加蓮さんが慌てて口を閉じる。えっと……聞かなかったことにしよう。
「悪いけど私もあんまり、奈緒や凛みたいに将棋詳しくないんだよね。来たけど力にはなれないかも」
「いえ、そんなことは……」
 幸子さんは学校の宿題をするために自室に戻っていた。とかく編集作業というのは孤独な作業なので、誰かがいてくれるだけでもありがたい。
 それに、以前加蓮さんが書いた観戦記を読んで、感銘を受けた部分があった。
「渡辺竜王は今期も挑戦はなし、か」
「そのようですね……」
 羽生名人が圧倒的に独走している時はともかく、名人位についた後も挑戦権を得られないという状況は意外だったかもしれない。
「歯がゆいだろうねえ」
「そう思われますか……」
 渡辺竜王の胸中は窺い知れないけれど、加蓮さんが渡辺竜王をどう捉えているのかは気になるし、直接聞ける。
「渡辺竜王は長い日で消化試合していい人間じゃないよ。きっと自分で自分をそう思ってる。自信とかじゃなくって、自分自身への冷静な分析の結果としてね」
「なるほど。それは何となく……渡辺竜王らしく思えます」
 そして、加蓮さんらしくも思う。
 不安な胸中と、それを冷静に見ている自分。
 無為に過ごすことを恐れているという点では、私達は似たところがあるかもしれない。
「で、形勢はどうなの?」
「いえ、それがさっぱり……」
 康光九段の攻め形は酷い悪形だ。2一の金は間違いなく遊ぶだろう。
 普通なら後手優勢、としたいところだけど。
 ことはそう単純ではない。
 後手からの早い攻めはなく、先手陣は整っている。
 何かあればすぐに後手は寄る。
「分かんないねえ」
「なるべく形勢は互角以外にしたいのですけど」
「分からないものは仕方ないって」
「そうですね。渾沌に耳目をつけて殺してしまった……という話もありますし。分からないものを分からないままに受け止めるのも、大切なことなのかもしれません」

  康光┣━┿━╋〇┿━┫渡辺

 21時30分~【形勢差】

 また身体がだるくなってきたので大きく伸びをしたら、足下で何かを蹴飛ばした。
同時に悲鳴のような声が聞こえてきて、私は思わず椅子から転げ落ちそうになった。 
「な、何? 何ですか……?」
 事務所の、妖精……?
 恐る恐る足下を覗き込んでみると……。
「あうぅ、ローキックなんてむーりぃ……」
 森久保乃々さんがいた。
 いつの間に……。
「あのー、ここで何を……?」
 さっき、幸子さんが乃々さんを探していたのだと思うのだけど。
「あの……幸子さんは自分の代わりにもりくぼに局面を解説させようとしているんですけど……森久保はそういうのむーりぃ……なので、あなぐませいかつをしているんですけど……」
 乃々さんがそう言った直後、また幸子さんが「乃々さーん! どこですかー?」と呼んでいる声が聞こえてきた。乃々さんはびくりと身体を震わせて、また私の足下に潜り込んでしまった。
 今度は蹴飛ばさないようにしないと。
「乃々さん、すいません。サポートが欲しいのは私なんです。私は……棋理というものに疎いもので、ここまでも皆さんの力を借りながら……何とか書いて来れたのですけど……」
「あうう、文香さんが困っていたのは知りませんでしたけど……」
「早く済みそうなところだけでも……教えて貰えませんか?」
「…………」
 乃々さんが無言になった。やはり嫌なのだろうかと思ったら、机の下で棋譜中継を確認していた。
「あの……その……」
「どうでした……?」
「いえ、何でも……」
「そうですか……」
「あの、えっと、屋敷-郷田戦が佳境だと思うのですけど……」

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「この局面なんですけど……ここで手番が後手に来てまして……。あの、その……△6八銀が決め手になると思うんですけど……」
「えっと、手順も教えて貰えますか……?」
「あの……その……△6八銀 ▲7八玉 △7七銀成 ▲同 玉 △6八銀 ▲7六玉△6五銀 ▲8五玉 △7四銀 ▲7六玉 △6五金 ▲6七玉△4五馬 ▲5六歩 △同 馬 ▲同 龍 △同 金 ▲同 玉△5七飛 ▲同 金 △同角成 ▲5五玉△5四歩……」
「え…ごめんなさい。ちょっと待って……」
 長い。私の棋力ではとても追いつけない。
 それほど明快ではないのだろうか
「あうう……思ったより難しいんですけど。助からないようで助かっていることはないと思うんですけど……」
「そうなのですか……」
「決め形は見えないですけど……もりくぼは郷田王将の勝ちだと思うのですけど……」

     屋敷┣━┿━╋━┿━〇郷田

  22時30分~【決着】

 乃々さんはスマホを睨みながら呻いている。私としてはありがたいのだけど、机の下から出ようともしない。
 さっきの分はもう更新してしまったから、幸子さんにはもう見つかっていると思うけど。
「あの……その……もりくぼは決め手を見つけたのかもしれないのですけど……」
 消え入りそうな声が足下から聞こえてくる。知らなければ小梅さんが連れてきた幽霊かと思うかも知れない。
「やはり……郷田王将の勝ちでしょうか?」
 足下を覗き込むと、乃々さんが示したのは違う対局だった。

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「えっと……?」
 康光九段と渡辺竜王の対局だ。先ほど心配した通り、2一の金がそのまま残っている。多分、後手の方が有利ではあるだろう。
 しかし……。
「決め手? 決め手があるのでしょうか?」
 乃々さんの顔を見る……と、目を逸らされた。
「えっと、もしかしたら……ですけど……」
 そう言った瞬間、盤面が動いた。

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 自陣に飛車捨て。
 何だろうこれは。
「あの……その……△3三飛なんですけど……▲同成桂は詰めろが外れるんですけど……それで△7九馬が間に合うともりくぼは思うんですけど」
「▲同竜は?」
「△同歩が詰めろ……ですけど……▲6五桂も△4三飛で、先手玉が詰めろ……」
「他に先手に手段は……」
「ないですけど……」
「え、ということは……」
 渡辺竜王の勝ちではないか。
「そうだと思いますけど……」
 先手は▲6五桂と跳ねるが、それも駄目だと言われていた。
 まもなくして、康光九段が頭を下げた。
 最初に決着したのは康光-渡辺戦だった。
「あの、えっと……さすが渡辺竜王だと思うんですけど……」
「そうですね……」
 加蓮さんはもう帰ってしまったけど、この対局を見ているだろうか?
 先ほどは竜王に少し厳しいことを言っていた。だけどあれは、間違いなく、期待の裏返しだ。
「あの……えっと、文香さん……?」
「どうしました?」
「その、もりくぼには文香さんが……あの、笑っているように見えたのですけど……何か面白いことがありましたか……?」
「はい。そうかも……しれません」
 渡辺竜王が決め手を指す瞬間を見て、手をぎゅっと握りしめている加蓮さんの姿を想像して、思わず微笑みが漏れたのだ。

   康光┣━┿━╋━┿━☆渡辺

渡辺竜王の勝ち

23時30分~【人事を尽くして】

 一つの対局に決着が着いた。一方で他の将棋も徐々に形勢が見えてきた。
 屋敷-郷田戦は後手勝勢だと乃々さんが言っていたが、この一文を書いている時点でまだ決着はついていない。
 泳ぎだした屋敷玉を捕まえられるか。最後の仕上げにかかっている。
 郷田王将は負ければ即降級。勝ってようやく広瀬八段の結果待ちだ。
 その深浦-広瀬戦だが、こちらの形勢も広瀬八段が良さそうである。
 このまま進めば、もしかしたら……例え勝ったとしても郷田王将にとって厳しい結果になるかも知れない。
 それでも、今は自分に出来る最善を尽くすしかない。
 天命とは何だろう。
 思えば不思議な言葉である。
 自分ではどうにもならない結果を、諦めるように受け入れるために生み出された言葉なのかもしれない。
 郷田王将は自分の命運を握る広瀬八段に負けてくれとは決して思わないだろう。
 どんな結果になろうとそれを受け入れ、飲み込み、先へ進む。
 王将戦では最強の挑戦者が郷田王将に挑んでいる最中だ。
 屋敷九段が最後の王手を放つ。しかしこれは形作りだ。
 屋敷-郷田戦。勝利した郷田王将は今、天命を待っている。

    屋敷┣━┿━╋━┿━☆郷田

郷田王将の勝ち。

00時00分~【急転】

 天彦八段が優位に進めているらしい。
 勝てばもちろん、名人挑戦だ。
 棋譜コメントによれば後手勝勢まであるらしいけれど、私にはその手順は見えない。
 他の対局も後手優勢で推移しているらしく。このまま進めば何とかこの任を終えることができそうだ。
 大変だったが楽しかった。ゲームセンターのクレーンゲームに挑戦した時のように、何事も、やってみなければ分からないものだ。
「あら、文香ちゃん。まだ起きてたのね」
「瑞樹さん……」
 顔を向けた私に川島瑞樹さんが穏やかに微笑む。
「夜更かしは美容の敵よ~」
 そう言いながら私になだれかかってきた。
「ちょ、ちょっと瑞樹さん!?」
 何だかお酒臭いような……。
順位戦最終局ね~。天彦さんの形勢はどうかしら? 歳が近いから、ちょっと気になってたのよ」
「えっと、△3九飛で後手が大分いいとのことですが……」
 そう言いながら、盤駒を流していく。
「あ、ちょっと待って! 今のところストップ!」
「え……は、はい……」
 指定されたのは63手目。瑞樹さんは険しい顔でそのコメントを読む。
「△3九飛で後手勝勢って言ったわよね?」
「はい」
「だのに△3八飛成が詰めろにならないんじゃ……危ないんじゃない?」
「え……」
「これはもう一波乱、あるかもしれないわね」
 そう言う間にパチパチと局面は進んでいく。
 △8四歩。
 後手は、決めに行く流れだったのでは……?
 焦りつつ違う対局を確認してみる。
 後手の勝ちだと言われていた深浦-広瀬戦でも継ぎ盤が復活していた。
 久保-森内戦は……相変わらず訳が分からない。
 何だろう。
 急に。
 一体何が起こっているのだ? 
「文香ちゃん」
「な、なんでしょう……?」
「長い夜になりそうよ?」
 妖艶に微笑む瑞樹さんは、やはり酒臭かった。

 00時30分~【天命】


「もう一つ、終わりそう」
 スマホの画面を見つめながら瑞樹さんが言った。
 終わりそうなところ、と言われればおおよそ察しがつく。
 行方-天彦戦はもつれ始めていて、久保-森内戦は難解だった。
 ある程度形勢に差が開いていて、その上で決め手があるかどうかという状況だった将棋。
 深浦-広瀬戦。ずっと後手が優勢だった。急転直下でなければ、後手が勝つ将棋だった。
 観戦記を書いていながら情けないことに、私は途中からこの将棋を見ていなかった。
 いや、見られなかった。
 郷田王将が勝った時から。
 この将棋の決着を見ることが、何だかとても恐ろしいことのような気がして、見られなかったのだ。
「天命を待つ、でしょ?」
 瑞樹さんの言葉の何かが私の背中を押して、私は画面を切り替えた。
 恐る恐る、画面を見る。

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「広瀬八段の勝ち、ね。残留おめでとう」
「これで郷田王将は勝ったのに、降級……ですね」
「残酷だと思う?」
「分かりません」
 誰かが残れば誰かが落ちるという仕組みである以上、何らかの結果が出るのは必然なのだ。
 郷田王将が残って広瀬八段が降級する結果となっていたとしても、私はきっとこの光景を残酷に感じていただろう。
 そして一方で、その残酷さに、美しさを感じる自分がいて、私はまた怖くなって盤面をそっと閉じた。

深浦┣━┿━╋━┿━☆広瀬

広瀬八段の勝ち。



 00時45分~【一路】

 いつの間にか、瑞樹さんは酔いつぶれて寝てしまった。
 宿泊用の部屋に何とか引っ張って、また観戦に戻る。
 朝始まった時には五局あった将棋のうち、もう三局が終局した。
 次に終わりそうなのは……久保-森内戦だろうか。
 私の側には誰もいない。
 もう皆寝てしまった。
 アイドルなのだから当然で、目に隈を作ってステージに立つわけにはいかない。
 だけど、今日だけは、最後まで見届けない。

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 この局面。
 控え室では▲8六銀が指摘された。この手が詰めろ逃れの詰めろになっているらしい。7七の地点に銀を利かせることで、6九まで追われた時に△7七桂を消している。
 そうであれば、後手はほぼ挟撃状態で受けに適した駒もない。
 これは、久保九段の勝ちになったか。
 ぱちり、と盤面が動く。
 ▲9六銀。
 一路、ずれている。
「え……」
 待って。私の棋力では追いつかない。
 ▲8六銀が勝着とされたのは7七に利いているから。それで先手玉の詰めろを防いでいるからだ。
 だったら、そこに利いていなければ。
「詰む……?」
 △3九桂成が入る。▲同角と取る。と金を入るさらに角で取る。送りの手筋。角を取る。香合い。桂打ち。王手が続く。
「頓死? 頓死なの……?」
 もう私の目にも先手玉の詰みが見える。プロが、森内九段が逃すはずがない。
 15時間……いや、一年間戦った結果が、これだというのか。
 一路の違い。
 ▲8六銀ならば先手が勝っていた。
 将棋は残酷だ。
 勝者と敗者の姿を、誤魔化しようもなく、突きつける。
 私はそれに何を見出せばいいのか。
 唯一の振り飛車党が、順位戦A級から姿を消した。

 00時55分~【扉を開く者】

 それは不意に訪れた。
 私はその瞬間を見ることも適わなかった。
 一分将棋だと、ぎりぎりの勝負だと分かっていたはずなのに。
 分かっていても、これまでの四局の結果の衝撃が、私を半ば呆然とさせていて、痺れたようになっていた脳は正常な思考ができなくなっていた。
 その時だった。
 行方八段が投了した。
「え……」
 人混みの中で不意に親とはぐれてしまった子供みたいな声が漏れる。
 本当に、迷子になったみたいだ。
 状況が正しく認識できない。
 少し遅れて、理解が追いつく。
 行方八段が投了。すなわちプレーオフはなし。
 今期A級の覇者は天彦八段。
 若き貴族は参加一期目にして、羽生名人への挑戦権を得たのだ。
 この将棋も熱戦だった。
 ほとんどの時間、後手が局面を優位に進めていた。しかし行方八段の粘りが、勝負手がついに実を結び、一時は逆転しているとさえ言われた。
 執念という言葉さえ甘いような、猛追だった。
 しかし、最後に立っていたのは天彦八段だった。
「ああ……」
 ため息のような、微妙な息が漏れる。
 色んな感情がぐちゃぐちゃに混じって、まるで整理できない。
 凄まじい物語をいくつも同時に読んだかのような。
 ぐったりと、椅子にもたれ掛かる。
 そうだ、最後まで書かないと。これが今日の私の役割だから。
 その時、寮の扉が激しく開く音がした。
「書の……女神……」
 荒い息を吐きながら、神崎蘭子さんがそこにいた。
「ら、蘭子ちゃん? どうして……地方ロケだったはずじゃ……」
 蘭子ちゃんは首を横に振る。何度も何度も。
 その瞳には、涙がいっぱいに浮かんでいた。
「文香……さんがっ……ずっと頑張ってたから……私っ……」
 いつもの不思議な言葉ではなかった。
 蘭子さんの本当の声。
 後でプロデューサーに聞いたことだけど、蘭子さんは地方ロケの宿泊先で『長い日』と私のブログ記事を見ていたのだそうだけど、途中でいても立ってもいられなくなったらしい。
 深夜の高速道路を、無理を言ってプロデューサーに送って貰って、346プロの寮まで帰ってきたらしい。
 きっと、私に会うために。
「文香さん……ありがとう。あなたにお願いして、本当によかった……」
 蘭子さんの瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「ううん。私こそ……ありがとう、ございました……」
  そんな蘭子さんを見ていると、聞いていると、いつの間にか私の目にも涙が浮かんでいた。
 年長の私は誤魔化すように蘭子さんを抱きしめると、また涙がこぼれてきて、しばらく二人して、子供みたいに泣いていたのだ。

 

行方┣━┿━╋━┿━☆天彦

佐藤天彦八段の勝ち。
佐藤八段は羽生名人への挑戦権を獲得。


 【鷺沢文香